甲子園出場できそうな強豪の私立高校に野球留学することが普通となった現在、公立高校で、しかもベンチ入りメンバー全員が地元の秋田出身という魅力や、農業高校が決勝に進出するのは1931年(昭和6年)の第17回大会における台湾の「KANO」こと嘉義農林以来だったことで、台湾でも大きく取り上げられた。
日本経済新聞の伊原健作・台北支局長が、嘉義農林の後継となる嘉義大野球部の監督に金足農業高校の活躍について感想を聞き、台湾人アイデンティティの観点から「台湾独自のアイデンティティーを紡ぎ出そうとする動きが映画『KANO』が社会現象となった背景だ。その流れは今も続く」と、台湾人の心に寄り添う記事を書いている。
————————————————————————————-金足農が呼び起こす台湾「KANO」の伝説【日本経済新聞:2018年9月8日】https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35104270X00C18A9000000/
【嘉義(台湾南西部)=伊原健作】第100回全国高校野球選手権大会で準優勝を果たし、日本中を沸かせた秋田県代表・金足農業。その活躍が台湾で「偉業の再演」として注目されている。台湾が日本統治下にあった87年前、夏の甲子園に台湾から出場した嘉義農林がまさかの快進撃を見せ、準優勝した記憶と重なるからだ。自らの歴史を探り、アイデンティティーを紡ごうとする台湾社会の動きを映している。
「金足農は映画『KANO』の伝説を演じた」。金足農が決勝戦を終えた翌8月22日、台湾紙「リンゴ日報」はこう報道した。中央通信も「人々に『KANO』を連想させた」と伝えた。農業高校の準優勝は1931年の嘉義農林(KANO)以来だ。KANOの物語は映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」として2014年に公開され、大ヒットした(日本では15年公開)。
台湾南西部に位置し台湾の食料庫と呼ばれる嘉南平原にある都市、嘉義。市中心部には投球フォームをとった金色の像がそびえる。モデルは嘉義農林のエースで、甲子園で決勝まで一人で投げ抜いた呉明捷投手だ。
台湾は日本が第2次世界大戦で敗戦・撤退するまでの約50年間、日本統治下にあった。23〜40年にかけては台湾の代表校が夏の全国大会に出場。31年にKANOは近藤兵太郎監督の指導のもと、日本人、漢民族(台湾人)、原住民の混成チームとして団結。決勝で愛知県の中京商(現中京大中京)に敗れるまで快進撃を演じた。
「嘉農果然(期待通り)大勝し あす晴れの決勝戦」。嘉義農林の流れをくむ嘉義大学の資料室には、当時現地で発行されていた日本語の新聞が残されている。
「金足農の吉田(輝星投手)はすごかった。台湾は投球制限があるから同じことは起こらないが、かつての呉明捷と同じだね」。嘉義大野球部の監督、鍾宇政さん(44)は感慨深げだ。
「KANOの歴史は我々の『根』だ。精神はいまも受け継がれている」と鍾さんは話す。比較的貧しい家庭の出身者が多い農業高校の生徒たちに、努力すれば夢がかなうという「雑草魂」を根付かせた。野球の伝統は続き、台湾のプロ野球団、富邦ガーディアンズの投手で、米デトロイト・タイガースでもプレーした倪福徳選手らを輩出した。
野球は台湾で最も盛んなスポーツだ。ただその発展に日本人の指導を受けた嘉義農林が大きく貢献した事実は、映画が公開されるまで広く知られてはいなかった。戦後に中国から渡ってきて台湾統治を始めた国民党政権は、人々に「中国人」としての教育を徹底。過去の日本の貢献は屈辱の歴史として蓋をされてきた経緯がある。
80年代後半からは民主化が進み、中国ではなく台湾の歴史の見直しが徐々に進んだ。2010年代に入ると自らを中国人ではなく、台湾人と疑いなく信じる若い世代「天然独」が台頭。過去の歴史を発掘し、台湾独自のアイデンティティーを紡ぎ出そうとする動きが映画「KANO」が社会現象となった背景だ。その流れは今も続く。
アイデンティティーは台湾の政治を動かす原動力であり、中台関係や東アジア情勢にも影響する重みを持つ。「天然独」の台頭は16年の総統選で対中傾斜を進めた国民党の馬英九・前政権にノーを突きつけ、台湾独立志向を持つ民主進歩党(民進党)の蔡英文政権の誕生を導いた。
政治的に敏感なテーマなだけに、映画の公開当時は独立志向の高まりを警戒する親中派から「媚日」(日本にこびる)との批判の声も上がった。
ただ嘉義大の鍾さんは「歴史は歴史だ」と冷静に受け止める。現地ではいまも地元の団体などの主催で毎年映画の上映会が開かれ、「KANO」を見たことのない人はほぼいないという。独立や統一などあらゆる物事が政治に結びつけられやすい台湾。さわやかな風を吹き込んだ快挙が色あせることはない。