赤司初太郎(あかし・はつたろう)は野心と野望と出世欲の塊のような男である。赤貧洗うがごとき少年期を経て台湾でしょうのうと砂糖で大成功、勢いを得た赤司は炭鉱からパイナップル缶詰まで関連する事業会社は50社を超えた。リスクを恐れぬ冒険的経済人の代表と言える。
「元亀天正の勇士、豪傑を今に見る思いがする。身長五尺七、八寸、大兵肥満で風采群を圧しておる。青雲の志抑えがたく、ついに図南の鵬翼(遠隔地で大事業を志すこと)を張って台湾入りを企てたのは当然の帰結である。一難を経るごとに勇気百倍し、ついに赤司鉱業の経営に成功した」(湯本憲二著「財界の名士とはこんなもの?」)
広大な東京多磨霊園の中でも指よりの大きな赤司の墓標にはあふれるほどにその業績が刻まれている。忙しくて一日一食しか取れない時もあったが、それでも20貫(75キロ)余の堂々たる体格であった。世に痩せた投機師はいないといわれるが、赤司も北海道、中国、台湾と遠隔地に富の源があるとの信念から未開の地を駆けずりまわった大男であった。乱世を好み、勝負を競った。
赤司は初め大阪で摂津米穀肥料会社に勤めるが、「富源は北方にあり」とばかり北海道で開拓事業に着手する。材木、漁業、農業いずれも失敗に帰するが、気力は衰えることはなかった。むしろ困難に直面するごとに勇気は倍増する。
明治27年日清戦争が勃発すると、鉄道用の枕木を遼東半島に送って一旗揚げようと従軍を志願するが官許とならない。それならばと、大倉喜八郎の大倉組の人夫頭となり、戦地に渡る。冒険好きの赤司の面目躍如の瞬間である。だが、ここでも思惑は外れる。
「野戦病院の御用達商に転身、同業をして驚嘆させるような働きを演じ、同地に赤司の存在を根強く植え付けたのだった。だが、ひとたび戦争の終結するや、遼東半島還付の巻き添えを食って赤司の事業は根底より覆り、転落の身を台湾で再起しようとしたのだった」(武田経済研究所編「非常時財界の首脳」)
赤司の野望は台湾で大きく花開く。5万円借金して買収した、しょうのう山を横浜の豪商安倍幸兵衛に150万円で売却して巨利を占めた後は得手に帆を掲げて快進撃が続く。しょうのうに次いでは砂糖でも成功する。中小製糖会社を次々と買収、整理、統合させ製糖業界の再編の立役者となる。
「日本糖業秘史」が近代砂糖業界の語るべき人物として赤司の勇猛ぶりを伝えている。
「北海道に押し渡ったり、日清戦争の時は満州へ御用商人として飛び出したり、日清戦争後の台湾征伐に鉄道工夫を率い百人長として乗り込む。そうした乱世仕立てで平和な天地には不向きな性格である」
調子に乗った赤司は満州のビート糖に目を向ける。折から満州事変が勃発、企業合同機運が高まる中、満州製糖に一本化されると、赤司が社長に就任する。赤司には「功成り、名遂げ、悠々自適の日々」などあろうはずがない。昭和15年東京発動機(ト―ハツ)社長に担がれる。当時唯一のガソリンエンジンの軍需工場として躍進する。
ト―ハツは長男赤司大介(1913-1992)が引き継ぐが、戦後ホンダ、ヤマハなど後発の追い上げにあって失速する。
信条・明朗な義心の経済人・難関を物ともしない山のような意気・事業報国、大衆の利益
赤司初太郎(あかし はつたろう 1874-1944)明治7年高知県出身、同25年漁業視察で北海道を訪れ、野心に火が付く。同27年日清戦争勃発で戦地に渡るが遼東半島返還で野望はかなわず台湾で再起を期す。借金してこしらえた5万円を投じしょうのう山を買収、後に横浜の豪商安倍幸兵衛に150万円で売却、巨利を占める。新竹製糖、内外製糖の各社長を務め、昭和2年昭和製糖を創設、社長に就任。さらに満州の満州製糖社長、同15年オートバイの東京発動機(ト―ハツ)の2代目社長に就任。本格的伝記として土師清二著「赤司初太郎伝」がある。