【台湾の声:2023年9月5日】
9月3日、蔡焜霖さんが肺炎のため亡くなられた。
この9月14日、台北でお会いする約束をしていた。緊急入院したと伺い心配していたが、律儀な焜霖さんは亡くなる前の日にメールを下さった。
<明理様 入院してから4日4夜監査の結果禁水禁食、全身に色々むすびつけられてスマホのタイプするのもままならず、遅くなり御心配おかけして申し訳ございません。一日一回面会できる時間調べてお知らせします。>
もう、そのお知らせは届かない。
心優しき純朴な青年だった蔡焜霖さんは、国民党政権による無慈悲な暴力的支配の犠牲となり、無実の罪で20歳から30歳までの青年時代を緑島の監獄で過ごした。釈放された後も、「思想犯」だったレッテル故に思うように生きられなかった。
それにも負けず、台湾の少年少女のために雑誌『王子』を創刊したこと、紅葉少年野球チームを支援することで台湾の少年野球ブームに火をつけたこと、台湾電通で手腕を発揮したことなど、様々な分野でたぐい稀な才能を花開かせた。
しかし、何といっても晩年、蔡焜霖さんが一番使命感をもって取り組んでいたのは、白色テロの事実を明らかにする転型正義の活動だった。もう二度とあのような時代が来ないように、その悲惨さを伝えようとしていた。中国と統一したらまた同じことが起きると危惧していた。
体調が悪くても天候が悪くても、求められれば会合へも緑島へも足を運び、若い人たちに真実の歴史と人権について語った。「釈放されたかと思ったのに、また緑島ですよ」とよく笑っていた。
台湾で私と会う時は、いつも緑島のお仲間だった郭純振さんや蘇友鵬さんや陳欽仁さんを誘って下さった。そして、よく歌を歌って下さった。どんな思いで緑島の囚人たちは歌っていたのかと思うと私はいつも涙を禁じえなかった。
2017年5月、日本に帰った私に焜霖さんからメールと共に一篇の詩が送られてきた。
<今回のご来台で一番嬉しかったのは、蘇先輩の招きでご一緒できたあの夜の集いなのですが、先輩と私が昔の歌を合唱した際、明理さんがそっと涙お拭いなさっていられていたのを目にし心打たれる思いでした。夜家に戻ってから、思いのままを書いたもの、このメールに添付しお送り申し上げます。
中学生の頃は西條八十や北原白秋、島崎藤村、それに石川啄木などの詩集を読み漁り、自分の日記でも詩の真似をして書き綴っていたのですが、投獄されてから若き友たちが、書き物だけのために処刑されたのを目にし、詩心も文学への思いもすべて死に果ててしまいました。
詩とよぶにはおこがましく、つたないものですが、「もう何時死んでも良い」という今の率直な心情をお汲み取りいただければ嬉しいです。>
「心優しい君に」 蔡焜霖
青春の日 囚われの島で愛唱した歌 今老いて 友と再び歌えば 傍らで 忍びやかに涙する 心優しい君
でも あの地獄絵の日々は すでに遠く 今は若いあなたたちと 膝組み合わせ語らう幸せ
もう新しい時代が来たのですね もう優しい日差しが 闇を追い払ったのですね
懸命に歌う声はしわがれ テンポも外れがちなのだけれど 歌うは世代超えた喜びの歌
涙ぬぐい 一緒に歌いませんか 私たちの春のおとずれ讃える歌 バトン渡し 更なる光めざして走り続ける歌
この素晴らしい詩に感動して、私も思わず拙いながらも返礼の詩をしたためた。
「喜びの歌を歌う君へ」
かつて君が囚われていた緑島 労働のあと 地面に寝転がり見上げた空は 青く澄んでいたでしょうか
白い雲は浮かび 流れていったでしょうか あなたの両親のところへ あなたの想う人の住む町へ
あなたは仲間たちと 知っている限りの歌を歌いながら どれだけの想いを 風に乗せようとしたことでしょう
監視する中国兵の歌えない 日本語の歌 英語の歌 ドイツ語の歌 無実である仲間たちと 保ち続けたプライドと意志
波の音に囲まれ 自分たちで築かされた石垣の中で 生きていく希望を かすかに繋いでいた日々
今こそ 伝えて 生きることの大切さを 今こそ 伝えて 自由であることの大切さを
一緒に歌いましょう 台湾の春を これから先もずっと 自由に歌が歌えるように
※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。