【産経新聞:平成26(2014)年4月29日「きょうの人」】
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140429/chn14042907570003-n1.htm
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「国難の地震(なゐ)と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」
台湾で短歌を通じた日本文化を紹介し続け、対日理解の促進に寄与したとして、旭日双光章を受
章した。
日本統治時代の1927年、台中市清水(きよみず)の生まれ。日本語で教育を受けた「多桑(トオ
サン=父さん)」世代で、地元の商業学校を卒業後、志願して岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に
入隊。日本で終戦を迎えた。帰台後は体育教師などを経て電子会社会長を務めた。
台湾歌壇の創始者、呉建堂氏(故人)と「剣道、酒、カラオケ仲間だった」(蔡さん)ことか
ら、2008年に歌壇代表を引き継いだ。
自らを「親日家」ならぬ「愛日家」と称するだけあって代表就任後は、日本文化への造詣の深さ
や人脈を生かし、歌壇を発展させてきた。
作家、司馬遼太郎の著書「街道をゆく〜台湾紀行」の取材でガイド役を務め、同書で「老台北
(ラオタイペイ)」と紹介されたことから日本の知己が一気に増えた。日本人を会食に招く機会も
多く、若い日本人には短歌、俳句をはじめ日本文化、歴史に関する博覧強記ぶりを披露してやりこ
めた後、「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」と語る。
日本の新聞、テレビはかかさずチェックし、内容に一喜一憂する。礼節や規律を重視し、大相撲
中継では「横綱が立ち合いで変化するとはけしからん」と憤慨することも。
現代の日本人が忘れてしまったような気骨を感じた。
(台北 吉村剛史)