か・のぶあき)氏が急性心筋梗塞で急逝されたのは、昨年(2011年)5月14日だった。花岡
氏の訃報は本誌でもお伝えした。
≪訃報を知って、あまりの突然のことに言葉を失った。花岡氏は本会会員でもあり、台湾
問題には深い関心を抱き、何度か李登輝元総統ともお会いになっていた。
先般3月27日に開催した本会総会後の「被災地応援チャリティ・コンサート」にも駆けつ
け、献杯のご発声をつとめていただいた。
「花岡信昭メールマガジン」は5月10日に933号を出したばかりで、花岡さんのようなベ
テラン政治部記者ならこの問題はどのように見ているのかと思い、いつも参考にさせてい
ただいていた。最近の菅直人首相退陣論にも共鳴するところが多かった。
4月に花岡さんを囲んで友人と一献傾ける予定だったが、都合で延期となったのが悔し
い。まだ65歳だった。あまりにも惜しい。心よりご冥福をお祈りします。合掌≫
その友人とは、花岡氏にかわいがられていた、国際アナリストとして活躍している熊本
市に住む内田圭二(うちだ・けいじ)氏のことだ。
去る5月24日、亡くなられて1年を期し、遠藤浩一(拓大教授)、猪瀬直樹(東京都副知
事)、大月みやこ(歌手)、すぎやまこういち(作曲家)、熊坂隆光(産経新聞社代表取
締役)、元谷外志雄(アパグループ代表)、元谷扶美子(アパホテル社長)、三宅久之
(政治評論家)、屋山太郎(政治評論家)、頭山興助(呉竹会会長)、渡辺利夫(拓大総
長・学長)などの各氏が発起人となり、「花岡信昭さんの思い出を語る会」が日本記者ク
ラブで開かれた。
この会にはやはり拓殖大学関係者が多く、拓大総長をつとめた本会の小田村四郎会長な
ども出席していた。
内田氏も、わざわざ熊本から上京して参加された。そのとき、こんなものを発表したこ
とがあると言って見せていただいたのが下記に紹介する一文だ。花岡さんのプライベート
なことにまでその筆が及んでいる。内田氏がいかに花岡氏から信頼されていたかがうかが
える一文でもある。花岡氏のご冥福を改めて祈りつつ、ここにご紹介したい。
ちなみに、下記の内田氏のプロフィールは本誌編集部が作成した。
内田圭二(うちだ・けいじ) 昭和31(1956)年、熊本県熊本市生まれ。同54(1979)年、
早稲田大学社会科学部卒業。同58(1983)年、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修
了。専攻は国際政治理論。アジア・アフリカ諸国でのべ 10年近くにわたって各種コーディ
ネーション業務に従事。雑誌編集長を経て、現在、国際アナリストとして活動中。日本国
際政治学会会員他。著書にペマ・ギャルポ氏との共著『新国際政治学講義─お蔭様イズム
の世界』(万葉舎、2004年)など。翻訳として、ダライ・ラマXIV世著、A・シロマニー編
『ダライ・ラマXIV世法王の政治哲学』(万葉舎、2003年)など。
花岡信昭さんを悼む 内田 圭二(国際アナリスト)
【現代警察(第132号):平成23(2011)年8月10日】
本コーナーの「国内政治」欄を担当されていた花岡信昭さんが5月14日、急性心筋梗塞で
急逝された。4月2日に満65歳になったばかりだった。大学の後輩として、一時期、深いお
付合いをさせていただいた。多少長くなるが、ここで花岡さんのことどもに触れるわがま
まをどうかお許し願いたい。
花岡さんは1946(昭和21)年生まれ。戦後世代で初めて、いわゆる大新聞社の政治部長
になった人だ。政治記者といえば豪放磊落なイメージがあり、酒も強そうだ。また古武士
然とした風貌からも、そう思われがちだった。しかし花岡さんは体質的に一滴も飲めなか
った。そのかわりに、ヘビー・スモーカーだった。鞄の中に、タバコをいつも1カートンは
入れて持ち歩いていた。
演歌が大好きで、本人もなかなかの歌い手だった。そして歌手の大月みやこさんの大フ
ァンだった。毎年大晦日は大月さんの私邸で、大月さんや彼女と親しい人達と一緒に新年
を迎えるのが恒例だった。
花岡さんは2002年7月、産経新聞の論説副委員長の職を投げうって長野県知事選挙に出馬
した。いや、正確には出馬しようとした。当時、長野県政は、田中康夫知事の下で混乱の
極みにあった。長野県出身の花岡さんは、この状況を何とか打開したいと思っていた。し
かし、花岡さんが出馬表明をした直後に、一人暮らしをされていた御母堂が重病で倒れ、
生死の境をさまよっていた。花岡さんはいろいろと悩んだ末に、結局、不出馬を決めた。
それを発表したのは「激励する会」が大々的に開催された翌々日のことだった。
けれども花岡さんは御母堂のことには一切触れず、反田中系候補者の一本化を出馬撤回
の理由にした。本当の理由があまりに私的すぎると考えたからだ。しかしこれを知らない
人達からは、非難の声が上がった。「花岡は餞別だけ貰って降りた」。こうしてさまざま
なバッシングを受けることになってしまった。それでも花岡さんは、御母堂について触れ
ることを潔しとはしなかった。
この顛末を自己のブログで明らかにしたのは、2006年に入ってからのことであった。花
岡さんにとってこの時期は、口には出さなかったが一番つらい時期であった。ある時こう
もらした。「あの失敗から人生が守りに入ってしまったようでね」。
県知事選出馬騒動の前々年に離婚していた花岡さんは、2004年にある大学病院で看護師
長を務める現在の奥様と知合った。「あなたにはいい仕事をしてほしい。そのために私が
いる」という奥様の言葉が、心の琴線に触れた。「こんなことをいう女性の情を一生かけ
ても大切に守りたいと思うよな」。花岡さんはそういう人だった。翌年、60歳を前に再
婚。「この年になると気持ちを寄せ合うことは大事だな。仕事に張りが出るよ」と少し太
った花岡さんは、顔をほころばせた。
その言葉通り、その年から自己のブログを開設して積極的な発言を始めた。いわば「復
活宣言」をしたのであった。2007年には産経新聞の客員編集委員になった。「声がかかっ
た以上、精一杯書いていくつもりだ」と、古巣に戻れたことを心から喜んでいた。09年に
は、拓殖大学大学院教授となった。
花岡さんは温厚だが、男気のある人だった。迎合を嫌い、主張すべきことは正々堂々と
主張した。震災後に菅首相退陣をいち早く唱えたのも花岡さんだった。さまざまな話題を
取上げ誠実に直言する姿勢は、独自の政治分析と相俟って多くのファンを持った。
現政権だけでなく、日本の政治そのものが大きな転換期にある今、花岡さんは吾々がさ
らに必要とする人だった。しかしそんなことをいえば、「君らがしつかりやってくれよ」
という叱咤の声が聞こえてきそうだ。
今はただ、御霊安かれと祈るのみである。花岡さん、ありがとうございました。
合掌。
〈2011・6・20記〉