今回の「第13回台湾李登輝学校研修団」(以下、李登輝学校と略称)の募集案内が発表された時、目に飛込んだのが、「八田與一墓前祭」の参列と参拝及び「高砂義勇隊記念碑」参拝でした。
過去に烏山頭水庫は4回、高砂義勇隊記念碑は1回訪問していますが、いずれの地も痛切に感じるのは地元の人々の熱情です。
烏山頭水庫はあの雄大な嘉南平野の穀倉地帯がダムの建設以前は塩害、干害、洪水に悩まされたとは信じ難い風景です。地元に育った人の話として「このダムができるまでは、このように広い平野でありながら貧しい農村だった。毎年の自然災害はある程度しかたがないと思っていた農民がほとんどだった」ようです。
あのダム建設の設計、工事の監督にあたった八田與一技師の発想や理念、工事費用の削減努力、工事に携わる人々への心配り、そして工事に携わった人々の苦労等を書物で読むだけでも感慨深いものばかりですが、昨年このダム近くの官田郷を訪れた時、小生と同年代の方が日本語で話かけてくれました。「私の父は八田さんの下でダム工事をしました。工事の人夫は台湾各地から集まって来たので、私生活上でもよく諍いを起こした。こんな時は八田さんに相談をすると、どんな細かいことでも必ず解決してくれた。この村の人々は今も八田さんに感謝している」と。
時間がなかったので長話ができなかったのは残念ですが、戦時中の金属供出時や戦後の混乱期に八田氏の銅像を水利組合の倉庫に保管し再度復旧設置した地元、嘉南農田水利組合をはじめ関係者の八田技師に対する熱情をひしひしと感じます。八田技師の人格、才能は今更述べるまでもないことですが、関係者の間で軋轢も多々あったでしょうが、当時の総督府や地元組合も、彼の常人では考えられない計画を見抜いたことも大切な要素と考えます。
現在、台湾では「世界遺産」への登録署名の活動が活発になっていて、日本でも取り組み始めたようですが、日台で力を合わせ、ぜひ「世界遺産」登録が成立することを願っています。
高砂義勇隊記念碑は烏来(ウライ)の温泉郷を一目で見渡せる清閑な地にあります。参拝の際の「祭文」通り、過酷な激戦地で精悍に戦うも、自分を顧みることなく事果てた高砂族の純真無垢な精神には只々感服するのみです。
過去にボルネオ島を観光旅行した時、戦時中、日本兵がジャングルの中に温泉を発見し慰安の場としたと聞きましたが、恐らく高砂族の人々もこの戦闘に参加しジャングルを進撃する時に活躍されたのだろうかと思ったことがあります。
日本人として自分の命を国のために捧げたこの高砂族の方は勿論ですが、当時の日本領だった国々の軍人、軍属をはじめ一般国民の戦争犠牲者、そして戦争以外のことでも善悪はさて置き、日本国民として生活をしたことを忘れてはならないと考えます。
このように現在に至って、烏山頭水庫や高砂義勇隊について気づかされるのは、自身の勉強不足は勿論ですが、昭和21年に小学校入学の我々世代は、日本歴史の教育は江戸時代で講義が終ってしまい、明治維新以降は自分で勉強することでした。日清戦争、日露戦争の経緯は各文献で読みました。台湾のみを注視したり肩入れする必要はないと考えますが、当時の世界情勢を今の視点で見るのではなく、当時の日本の置かれた情勢を冷静に客観的に眺め判断しなければならないと考えます。
李登輝先生の著書『最高指導者の条件』でも述べておられますが、人間の一生を考えた時、その人の思考力を左右する幼少期・少年期の多感な時代の教育がいかに大切かを説いておられます。理念のしっかりした客観的な歴史教育が必要です。
前回参加の第11回(平成21年4月)では李登輝先生の体調が優れず講義を聞くことができなかったのですが、今回は約1時間の予定で始まった講義はいつも通りの迫力で、質疑を含め約1時間45分に及びました。現下の政治・経済等の台湾情勢を語られた上、講義の締め括り近くで小生の「親鸞聖人」に対する質問にも丁寧に解説され、「今を否定せず肯定をした上で事を改めよ」と回答をいただいたと解釈しました。貴重な体験ができたことに感謝しています。
その他の講義も、黄昭堂先生や黄天麟先生など毎回馴染みの講師の方々でしたが、その時の情勢に応じて話され、台湾の現況を知る上で大変勉強になります。それにしても、政治、経済の関連を含め中国に併呑されそうな危機は台湾に限らず、日本政府も日本国民も真剣に考え政治(特に外交、安全保障)経済(経済界を含む)に目を向けるのが肝要と痛感しました。
この李登輝学校、いつも充実した内容で台湾認識が深まり、日台共栄の基礎として永続することを期待しています。
また参加をされた人々は、初体験の人や過去12回参加された長老・猛者と様々ですが、それぞれの視点から台湾を眺め、意見交換ができるのも楽しいことです。条件が整えばまた参加することを夢見ています。最後に研修を企画された関係者に敬意を表し感謝いたします。
平成22年(2010 年)5月20日