の水管を敷設し、白冷圳(はくれいしゅう)」と呼ばれる農業用の水路を造って農地
を潤した日本人技師、磯田謙雄(いそだ・のりお)についての記事を何度か紹介している。
白冷圳は昭和7年(1932年)に完成し、その10月14日を通水記念日とし、今年は15日
に通水記念式が行われている。本誌では、前駐日台湾代表の許世楷氏と盧千恵夫人が江口
克彦・参議院議員らを案内したこともご紹介した。
磯田技師には一人娘だというお嬢さんがいて、現在、東京都杉並区に住んでいるという。
北國新聞がインタビューを掲載しているので下記にご紹介したい。
台湾という新天地において、家族に「贈り物は絶対に受け取るな」と言って仕事に励ん
だという磯田技師の真摯かつ毅然とした姿が浮かび上がってくる。
磯田謙雄についてはまだまだ分からないことだらけだ。ご長女の方はじめ関係者へのさ
らなる取材が待たれ、屏東に地下ダムを作った鳥居信平(とりい・のぶへい)を発掘した
平野久美子さんの『水の奇跡を呼んだ男』のような優れた作品が生れることを期待したい。
◆白冷圳誕生80周年 新社台地に根付いた友情 盧千恵【10/22】
http://melma.com/backnumber_100557_5319100/
磯田技師顕彰に「感謝」 長女・松任谷さん人柄語る
【北國新聞:2011年10月31日】
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/H20111031103.htm
写真:父の思い出を語る松任谷良子さん=東京都杉並区の自宅
日本統治時代の台湾で水利事業に尽力した金沢出身の磯田謙雄(のりお)技師の長女で
台北市生まれの松任谷良子(まつとうや・りょうこ)さん(83)=東京都杉並区在住=が
30日までに、北國新聞社のインタビューに応じた。
20歳で一家で金沢に引き揚げた良子さんは「父の仕事が今でも台湾の人たちのお役に立
っていると聞き、うれしく思う」と少女時代を過ごした台湾を懐かしんだ。
良子さんが父の仕事で覚えているのは小学4年のころ、台湾北部の新竹(しんちく)県を
流れる頭前渓(とうぜんけい)の土木工事である。父の転勤に伴い、新竹の官舎に引っ越
した。
「台風のひどい時に『現場が心配だから』と命懸けで見に行くんです。母は不安でたま
らず、わたしも心細かった」と良子さんは回想する。家では仕事の話をほとんどしなかっ
た磯田技師だが、技師が水を治めた新竹は、今や「台湾のシリコンバレー」と呼ばれるI
T企業の集積地に発展している。
磯田技師の先輩に当たる同郷の八田與一(はったよいち)技師については「母と祖母が
『烏山頭ダムの時はねえ』とか『八田さんの所は子どもさんが多くてにぎやかだね』とい
う話をしていた」という記憶が残る。
総督府に出勤する際は詰め襟の官服を着用し「子ども心に『お父さんって立派だなあ』
って思っていた」。家族で海水浴へ行くにも時刻表で緻密な計画を立てるタイプで、「父
は『贈り物は絶対に受け取るな』と厳しく言い、受け取ると怒るから母も困っていた」と
厳格な一面がのぞく。
一方で一人娘の良子さんをかわいがり「夕食後に映画に連れて行ってくれるのがうれし
かった」と楽しい思い出に浸る。台湾生まれで台湾育ちの良子さんは台湾人の友人とよく
遊んだという。
父母と一緒に寝たきりの祖母を乗せ、最後の病院船で日本に引き揚げたのは、終戦から2
年後だった。中華民国が台湾で支配権を確立した後も、日本人技師の多くは「留用」とい
う形で仕事をした。良子さんは「台湾の人たちは汽笛を鳴らして引き揚げ船を見送ってく
れた」と脳裏に焼き付いた光景を語る。
台中市では農業用水「白冷圳(はくれいしゅう)」を造った磯田技師を顕彰し、昔
の水管を保存している。良子さんは「父がこんな仕事をしていたとは知らなかった。台中