命の旅」と名づけて、そこの暮らしや産業を見て回っている。来年1月には90歳になる。猛
暑の中を行った今年4回目の旅に同行し、高齢を押して歩き続ける李元総統の胸の中にある
のはなにかを考えた。
◆南投、台中地震被災地回る
4回目の旅は13年前の台湾中部大地震の被災地、南投県と旧台中県を回った。高鉄の台中
から車だ。車列は7台。最後部に取材陣のバスが2台連なり、前後にパトカーや白バイが付
く。高速道路に車はない。通過時間だけすべての車を止めているのだ。一般道路の交差点
には警官が立ち、信号を止め、手信号で車列を通す。これが元総統への優遇措置なのだろ
う。
最初の訪問地は南投県中寮郷の清水小学校。山中深く分け入った斜面に2階建ての校舎。
地震で斜面が崩れ、校舎は全壊し、生まれ変わって、モダンな木造校舎になった。生徒数
は約90人。その3分の1が「新台湾の子」。つまり東南アジアや中国など外国人配偶者との間
に出来た子供たちだという。
李元総統は子供たちと手を繋ぎ、先生たちの再建話に耳を傾けていた。近くの「瀧林書
斎」では地震後、米国から移住し、地元の子供たちに無料で英語を教える台湾人の話を聞
き、「台湾の歴史の話なら私が教える」と半ば本気で話していた。続いて埔里鎮桃米里の
「紙の教会」。神戸から送られた柱も壁も紙製の教会だ。宿泊は鹿谷郷の欧州風のゴージャ
スなホテル。地震で建物は無事だったが、欧州から輸入の調度品などが壊れ、修復に5億元
かかったという。
◆地元の声をじっくり聞く
翌日からはお茶の合作社、パイナップルケーキの工場、地震で壊れた小学校をそっくり
記念博物館にした「九二一地震教育園区」、清酒工場、知的障害者の施設を回り、最終の3
日目は生産量のほぼ全量が日本向け輸出という文心蘭の農場と地震でダムの一部が決壊し
た石岡ダムを見た。
何度かインタビューした経験では、李元総統は話好きで、一つ質問すると、とうとうと
話し出し、なかなか次の質問ができない。ところが生命の旅では違った。どこへ行っても
人の話をじっくり聞く。そして熱心に質問をし、時にはアドバイスもする。文心蘭の農場
では、生け花では花を長いまま使ったり、短く切ったりするから、同じ長さでなく、長短
混ぜて輸出したらどうかと提案していた。
「なぜ、地方巡回を始めたのか?」と聞くと、「総統を辞めてから地方を回っていない。
とくに地方の話を聞いていないから」。確かに地元の人の説明をよく聞く。総統として最後
の年に起きた大地震、自身がヘリですぐに現地入りして陣頭指揮した救援、復興活動をし
た大地震、あれからよくぞここまで復興したという感慨もあったのだろう。それが熱心な
視察になった。
◆尖閣より経済、人民は困窮
だが、どうもそれだけではない。2日目の朝、同行記者団と一時間ほどの懇談をした。冒
頭、「尖閣は日本の領土、問題は漁業権」と持論を展開、次いで「尖閣の問題なんかやっ
ている暇はないよ、今は経済だよ、台湾の経済は酷い。人民はみんな困っているよ」と語
気を強めた。
李元総統は台湾の行く末が心配でならないのだろう。総統辞任後、12年。主計総処の統
計では、台湾の今の実質賃金は15年前の水準より低い。李登輝時代から増えるどころかマ
イナス。「尖閣どころじゃないよ」というのはもっともだ。総統時代に自ら民主化を進め
た台湾はこのままでは衰退していくと危機感を持つ。「生命の旅」は台湾の生命を守り、
生き返らすための旅。その執念が90歳になる老人を走らせている。
実は旅の前にインタビューをしたが、李前総統は生命の旅では、地方の人材も発掘した
いとも言っていた。菅直人前首相の福島原発視察の話をした時、「リーダーは視察に行け
ばそれでいいということではない。行ったらそこで人民の生の声を聞くこと。それが一番
大事だ」と言っていた。続けて「総統を罷免できるかなぁ」とも呟いた。これは菅直人批
判であると同時に馬英九総統批判でもあった。
◆新たな挑戦は総統罷免?
台北に戻って間もなく李前総統は、台湾団結連盟の代表大会に出席した。大会は総統罷
免を求める住民投票の署名集めのステーション開設準備を進めることを決めた。就任1年間
は総統罷免を求めることはできない。目標は就任1年になる来年5月。総統批判の声は広が
っている。新党の王監察院長までもが総統は「無能」と言い出した。地方の人民の声をバ
ックに、地方の新たな人材を集めて李元総統の新たな挑戦が始まるのかもしれない。