の平成25年(2013年)9月、『台湾よ、ありがとう(多謝!台湾)━白色テロ見聞体験記』(展転
社)を著した。
昭和8年(1933年)10月生まれの小林氏は現在82歳。70歳のときに「人生の節目を迎えた今、台
湾と関わった半生の中で、見聞し、体験した事実をあるがままに記述してみた」として、私家版で
『多謝台湾─白色テロ見聞体験記』を刊行している。
そのとき、小林氏が台湾独立運動の先達として慕う宗像隆幸氏(現在、台湾独立建国聯盟日本本
部顧問)が「酒と女あり、冒険あり、まるで娯楽小説のように面白く読める本である。しかし、こ
れは著者自身が自分の経験を綴った実録なのだ」という推薦の辞をしたためている。
その後も本書の出版を望む声が続いていたことで、9年の歳月を経、新たに編纂して出版された
のが『台湾よ、ありがとう(多謝!台湾)』だ。本書には、李登輝元総統も下記のような「推薦の
辞」を寄せられている。
<こういう日本人がいたことに驚いた。戦後台湾の白色テロ時代に、台湾の民主化を要求するビラ
を気球に積んで台北の空からばらまいたとは、当時を知る私には信じがたい事実だ。我が身を顧み
ず台湾のために尽力した日本人は少なくないが、小林氏もその系譜に連なる躬行実践の人だ。本書
は、台湾の民主化の陰に日本人も関わっていた歴史を証す台日交流秘話と言ってよい。>
このたび、本書が歴史時代作家クラブに所属する評論家の雨宮由希夫氏の目に留まり、要点を的
確にとらえた重厚とも言える書評を発表した。いささか長いが、下記にご紹介したい。雨宮氏の書
評は歴史時代作家クラブの公式ブログでも紹介されていることを付記する。
また、雨宮氏の書評にはタイトルがつけられていなかったので、本誌では「台湾への深い愛が満
ち溢れる『台湾よ、ありがとう(多謝、台湾)』」と付して掲載したことをお断りする。
本会でも出版後すぐ頒布案内をし、現在でも取り扱っている。
◆小林正成著『台湾よ、ありがとう(多謝!台湾)━白色テロ見聞体験記』
https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/uzypfmwvv2px
台湾への深い愛が満ち溢れる『台湾よ、ありがとう(多謝、台湾)』
雨宮 由希夫(評論家)
白色テロのあの時代、台北のホテルの屋上から、台湾の民主化と独立を訴えるビラを散布した日
本人がいたとは。その人の名を小林正成という。本書の著者である。
当時、国民党政権は戒厳令を発し、台湾独立を主張すること自体を叛乱罪に当たるとした刑法を
定めていた。投獄はもちろん銃殺も独裁者の胸三寸にあり、秘密軍事裁判で闇から闇に葬り去られ
ていくのが「政治犯」の運命であった。
事件当時の1971年(昭和46年)5月、小林は38歳。思慮分別のある日本人青年小林をして、かく
も無謀な行動に駆り立てたものは何であったか。
中国大陸での国共内戦に敗れ台湾にのがれた国民党は、台湾で長く一党独裁体制を敷いたが、そ
の台湾で何が行われていたか、ほとんどの日本人は知らなかった。小林も、かつて日本が台湾を統
治していたことくらいは知っていたが、戦後の台湾についてはまったく知らない、並みの日本人で
あった。
1967年(昭和42年)のある日、小林は誘われるままに何の予備知識もないまま台湾へ観光旅行に
出かける。台湾人作家・黄春明の小説『さよなら再見』に描かれるように、当時の台湾は妓生観光
の韓国とともに、売春を求める男性にとって天国であった。台湾への旅行は酒色を目的とした不純
な動機でからであったと小林は赤裸々に告白している。このあけすけな純朴こそ、著者の愛すべき
天性の資質なのであろう。これこそ全編を通じて読者を惹きつけてやまぬものであるか。
台湾が気に入り、何度か台湾に遊びに行くことで、また在日の台湾独立派の台湾人と交遊するこ
とで、台湾への理解を深めていく。鄭欽仁(台湾大学歴史学教授、東大文学博士)と知り合ったこ
とが、小林が台湾独立運動に関心を持つきっかけとなり、1968年(昭和43年)、彼の縁で台湾独立
聯盟の秘密メンバーになっている。国民党が台湾独立聯盟を叛乱団体と特定しているのを知ってか
知らずか、小林は台独聯盟に加盟した翌年にはくだんの事件を決行している。
なぜ、日本人の貴方がこれほどまでに台湾独立運動にのめりこんでいったのかとの問いに、「私
は白色テロを平然と行う国民党の一党独裁政治から台湾の人々を解き放ちたいと考えて、あえて台
湾独立聯盟に参加した。その行動のひとつが今回のビラ撒きだった」と小林は何の気負いもなく答
えている。
台湾を旅し、なにがしかの縁が生じた台湾人の身の上話を小林は丁寧に聞いているが、息子が日
本軍兵士として戦地に赴き帰らぬ人になったという一人の老婆の、日本軍を恨むわけでもない毅然
たる生きざまを見た小林は、「自分の意思とは関係なく、他人の力に翻弄される様子はどこか台湾
人の運命を象徴している」と記している。同一のことをかつて司馬遼太郎は「場所の悲哀」と看
取った(『台湾紀行』)が、私たちは、近世以降、台湾がオランダ東インド会社、鄭氏政権、清朝、
日本、そして「中華民国」(国民党)と、常に対外勢力によって支配されてきた歴史に立ち向かわね
ばならない。台湾史の「対外勢力」はとりもなおさず小林が感知した台湾人の人生の「他人の力」
なのである。
小林が逮捕され獄中にあった時、台湾出身で日本に亡命中の王育徳や金美齢が事件当時の緊迫し
た情況の下、小林の留守家族に送った手紙が本書に収録されている。必見である。
台湾人が「伏魔殿」と恐れる台湾警備総司令部での4か月の監獄生活の末に、小林は8月31日、軍
事裁判、即刻追放処分で帰国している。日本人だから、国外追放ですんだのだろうが、小林は徒で
は起き上がらない。
収監時、隣の監房にいたのが政治犯の謝聰敏である。謝は「台湾自救宣言」事件で彭明敏(台湾
大学法学部教授)と一緒に逮捕されていて、処刑の危機にさらされていた。小林は出国時に、謝の
メモを秘密裏に持ち出す。そのメモが「ニューヨークタイムス」に全文掲載され、反体制派の多く
の人々の命を救うことになるとは。この件は、まるでスリルに満ちた冒険小説を読むような感があ
る。
1971年といえば、当時、私はある私大の大学院修士課程で中国古代史を学んでいたが、正直言っ
て、私は台湾独立運動に係わった小林正成のような日本人がいて、このような事件があったことを
全く知らなかった。
事件を振り返る前に、事件前後の台湾略史を綴る。
1970年1月 彭明敏、スウェーデンに亡命。
1971年5月 小林正成、台北のホテルの屋上から、ビラを撒く。
1971年8月 キッシンジャーの中国訪問。
1972年9月 日中国交回復。
1975年4月 蒋介石 死去。
1987年7月 戒厳令解除。 翌年1月 蒋経国死亡。
当時、中国の国連加盟をめぐって国際世論は雪崩を打って中国に傾いていたが、台湾独立聯盟は
代表権とは別次元で、「中国は中国、台湾は台湾」として、台湾の議席確保に奔走している。この
ことを小林の盟友である宗像隆幸の『台湾独立運動私記 三十五年の夢』を読み、今にして、知っ
た。彼らは当時から今まで45年間、一貫してぶれていない。彼らは生涯のすべてを台独に捧げてい
る。これには敬服せざるを得ない。
本年1月、台湾総統選が行われ野党・民進党の蔡英文主席が予想を超える大差で勝利をおさめ
た。台湾の民意は中国に秋波を送る国民党を拒み、「一つの中国」を受け入れない台湾独立志向の
強い民進党を選んだ。
20年前の、香港の「祖国復帰(中国返還)」を1年後に控えた1996年(平成8年)、台湾では住民投
票による総統直接選挙が行われ、李登輝が総統に就任(次席は彭明敏)し、民主化の潮流の下、
「李登輝時代」が着実に進行していた。
あれから20年。両岸経済は相互依存を深めているなど中国も台湾も大きく様変わりしたが、台湾
人の中国への視線が複雑さを増しているのも事実である。経済的な結びつきは大事だが、統一とは
別問題であり、台湾が中国に呑みこまれるのではないか、と多くの台湾の人々は危機感をつのらせ
ている。
今回の総統選で台湾は「現状維持」、つまり大陸と台湾の別々の政権が統治している現状の固定
化を選び、3回目の政権交代を実現させた。これこそ台湾の民主制度の安定性を再度証明したこと
に他ならない。台湾では民意を問う選挙によって総統を選ぶことができる。一方、中国は国家の基
本政策の決定過程すら密室で進められて民意が反映することはありえない。かつて、中国は経済発
展とともに民主化が進むものと期待されたが、それは絵に描いた餅であった。そもそも中国は普通
の国民国家ではなく、共産党が権力を独占した国家体制は今後ますます強固になっていくと私たち
は思い知らされた。
中国大陸で十分な条件が整わない限り、統一すべきではなく、統一は台湾の活力を失わせると評
者は思うが、中国と台湾の関係を著者はどう見ているだろうか。
「時が流れて、中国に賢い指導者が現れて、台湾を兄弟の国として見直し、アジアの緊張を解き
ほぐすならば、私は中国友好人士の列に加わるのにやぶさかでない」と著者はやや悲観的に記して
いる。
本書は国民党一党独裁による戒厳令下の台湾でおこった「台日交流秘話」を披歴した、生々しい
体験記であり、事件の当事者たる本人の半生記であるが、過去を記すにとどまらず、現在を思い、
未来に思いを寄せている。
一冊の本の中に著者の、日本への思い、台湾および台湾人への限りなく深い愛が満ち溢れてい
る。
「自分の国を大切に思う心は自分を大切に思い、家族を愛する心と同じだ。台湾に係わったおか
げで、私はこれを身をもって知ることができた。ゆえに、台湾に感謝の念を込めて、この本の書名
を『多謝、台湾』とする」と。
なお、「多謝」のルビは北京語の「トオシエ」でなく、台湾語の「ト−シャ」である。
(平成28年3月2日 雨宮由希夫 記)