このほど、日本統治時代や日本語世代の研究では第一人者と目される中央研究院民族学研究所の黄智慧先生の肝煎りにより、6月9日(土)と10日(日)に「第15回台北昭和町会の日」が開催されました。
これは、台湾から引揚げ後ほぼ60年を経た後、同じ「昭和町」に住んでいたというご縁で、2004年より毎年6月の第2日曜日に東京で旧交を温めてきたという「台北昭和町会」の定例会が昨年の14回をもって解散しました。それを残念に思い、なんとか引き継ぎたいと奔走された黄智慧先生が企画したものでした。
当日は、日本からも湾生のみなさんをお迎えして「昭和町」の新旧住民の交流も行われ、また現在、日本家屋保存と活用経営に力を注いでいる皆さんの活動を知ってもらう場にもなったそうです。
朝日新聞の西本秀(にしもと・ひでし)台北支局長がその模様を伝えていますので、下記にご紹介します。
なお、西本記者は記事中で「日本が台湾を植民地統治した」「日本の植民地だった台湾」と表現していますが、果たして台湾は日本の「植民地」だったのでしょうか。西本記者ばかりでなく、台湾が日本の植民地だと記述しているケースは少なくなく、中には「日本は台湾を侵略した」とまで表現する台湾通と称される著名なジャーナリストもいて、どうにも違和感を覚えます。
本誌でよく紹介している「黄文雄の『日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実』」の黄文雄氏(文明史家、本会副会長)は「台湾人が問う、日本の『植民地支配』は本当にあったのか?」(2016年6月9日号)で下記のように指摘しています。
<下関条約後、台湾経営のために設立された「台湾事務局」(局長は伊藤博文)において、この「台湾植民地論争」が大いに議論された。以来、この論争の参加者は日本政界の大物、帝国議会議員、日本政府関係者、憲法学者、植民地学者、ジャーナリスト、台湾知識人など広範囲にわたって繰り広げられた。つまり、過去半世紀(1895〜1945)にわたる日本の台湾統治は、決して「日本帝国主義下の植民地支配」などと一言で語り尽くされるべき単純なものではない>
編集子も、日本は「内地延長主義」方式を採用して台湾を統治しましたので、台湾は日本の植民地ではなかったという黄文雄氏の見解に同感です。
台湾でも、戦後は中華民国史観の立場から日本が植民地支配していたという意味を込めて「日據(日本占領時代)」と表現してきましたが、李登輝総統時代の1997年、中学校の歴史教科書『台湾認識』から「日治(日本統治時代)」というニュートラルな表現するようになり、高校の歴史教科書でも「日治」に一本化されてきました。
ただ、教科書検定制度を採用する台湾では、出版社側が「日據」と使用して申請するケースも見られ、論争はいまだに続いているという現状です。黄文雄氏が指摘するように「単純なものではない」のです。
だから、日本でも台湾でも評価が定まっていない日本時代の台湾について、新聞が安易に「日本の植民地だった台湾」と使用することに違和感をいだくのです。こういう論争が未だに続いている歴史を切り捨てているのではないか、公平を旨とするメディアが一方的な表現に組していいのかと、危惧をいだくのです。
ちなみに、西本記者が取り上げている中央研究院民族学研究所の黄智慧先生は「日治」と表現しています。メディア各位には、これを機にご一考いただければ幸いです。
◆黄文雄「台湾人が問う、日本の『植民地支配』は本当にあったのか?」(2016年6月9日) https://www.mag2.com/p/news/206661/2
————————————————————————————-(世界発2018)日本家屋はいま:上 台北、生まれ変わる「昭和町」【朝日新聞:2018年6月26日】
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13556662.html?_requesturl=articles%2FDA3S13556662.html&rm=150写真:茶館「和合青田」。見学者が縁側で記念撮影をしていた=台北、西本秀撮影
日本が台湾を植民地統治した頃、台北に「昭和町」と呼ばれた地区があった。今、古い日本家屋が次々と改修され、茶館や画廊などに生まれ変わっている。(台北=西本秀)
台北市内の青田街に4月末開業した茶館「和合青田」のお披露目式。東京から招かれた滝令子さん(67)が門をくぐると、台湾人の従業員らが「おかえりなさーい」と日本語で出迎えた。
東洋の茶文化を紹介する施設となったのは、1930年建築の瓦ぶき日本家屋。滝さんの祖父で旧制台北高校(施設は現台湾師範大学)教師だった故三尾良次郎と家族が暮らしていた。一家が「内地」と呼ばれた日本に戻り、家屋は台湾電力の管理下に。戦後、社宅として使われた後は空き家となっていた。
この家で育った三尾の長女で滝さんの母親にあたる黒木恭子さん(94)は高齢で訪台できず、滝さんが手紙を代読した。「幼いころに暮らした台北の家が新しい時代に生まれ変わり、本当にうれしく思います」
台湾電力から使用権を得て、畳や床の間を生かして改修した茶文化団体の張清振さん(54)は「時を重ねた味わいある柱や壁が、くつろいでお茶を味わう場にふさわしい」と語る。
青田街や隣の温州街一帯は「昭和町」と呼ばれた。28年に台北帝国大学(施設は現台湾大学)が設置され、内地から来た教育関係者や総督府の官吏らの住居が建てられた。和室のほか、洋間や女中部屋も備えた邸宅だった。
一帯は60棟余りが残り、一部は廃屋となっている。街づくりのため再生が本格化したのは2010年代に入ってからだ。茶館の隣の「敦煌画廊」は12年にオープン。やはり台北高校教師の家。11年に開店したレストラン「青田七六」は台北帝大の農学教授宅だ。
今年3月に開店した「暖時光」はカフェと高齢者向け生涯教育施設を兼ねる。16年に開館した「声音光年」は蓄音機の博物館。林尚穎副館長(34)は「台湾に蓄音機が入ってきた時代に家庭で音楽を鑑賞した様子を日本家屋で再現したかった」と語る。
■「台湾生まれ」の記憶引き継ぐ
日本家屋を再生した画廊やカフェなどが合同で今月9日、「台北昭和町の日」というイベントを開いた。写真展や見学ツアーを企画し、当時暮らしていた日本人を招いて交流した。
兵庫県明石市から参加した伊東進さん(75)と妹の紀子さん(72)は、1947年に引き揚げるまで昭和町に近い東門町で暮らした。「湾生」と呼ばれる台湾生まれだ。
近くの水路や瓦屋根のカーブなどかすかな記憶を頼りに、ネット検索で台北の地図や航空写真を調べて旧宅を探し出し、訪れたのは昨年9月。古びた空き家となっていたが、進さんは「ちゃんと残っているだけでも感激でした」。
台湾側がイベントを企画したきっかけは、日本側の「台北昭和町会」が昨年で活動を休止したことだ。かつての住人らが毎年6月に東京で旧交を温め、台湾側とも交流していたが、会員の多くが80代、90代となり、継続が難しくなった。
記憶を引き継ごう。台湾側で日本家屋の保存を呼びかけてきた人類学者の黄智慧さんらが提案し、イベント開催が決まった。
台湾では、大陸で日本と戦った国民党政権と共に移り住んだ人々と、日本の植民地だった台湾で暮らしてきた人々の間で、日本統治への評価が分かれてきた。
否定的な見方が強かった国民党政権の独裁が終わり、日本時代を含めて台湾史を再発見しようとする動きが近年は強まっている。黄さんは「日本家屋の保存は、台湾がたどった歴史を形として残す試みの一つになる」と語る。
こうした取り組みは、街おこしや、日本時代を懐かしむ以上の重層的な意味を帯びている。実は日本人が去った後、残された家に住んだのは、大陸から来た人々のほうだった。彼らにとって台湾と出会い、暮らした記憶の受け皿が瓦屋根の家だった。
台湾は終戦を境に支配層が入れ替わったことによる近現代史の断層がある。だが、日本家屋を舞台に見渡せば、その断層を越えられるのではないか。黄さんは、そう感じている。