住の湾生で、大正7年(1918年)生まれで今年97歳の岡部茂さん。
本日の読売新聞が「戦時下の台湾 印刷と歩む」という見出しで、岡部さんの写真とともに紹介
していますので下記にご紹介します。
読売新聞に掲載された岡部さんの写真は、昭和20年(1945年)5月31日の米軍による台北大空襲
で爆撃を受けた地点に印を入れた地図を手にしたものです。
台湾は米軍から空襲を受けて大きな被害を出しているにもかかわらず、台湾の馬英九総統は今
夏、抗日戦争勝利から70年となるのを記念して様々なイベントを行い、7月4日には大規模な軍事パ
レードまで行っています。この台北大空襲について触れることはありませんでした。
このように馬英九総統は日本と戦ったとして「抗日戦争」勝利を記念しましたが、大東亜戦争に
おいて、台湾の人々はどこと戦っていたのでしょうか。なぜ米国から空襲されたのでしょうか。李
登輝元総統は「私たち兄弟は祖国日本のために戦った」と述べています。
終戦70年特別企画講演会と銘打った岡部さんの話に心静かに耳を傾けたいものです。
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戦時下の台湾 印刷と歩む
【読売新聞:2015年9月16日】
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20150915-OYTNT50412.html
写真:台北大空襲で爆撃を受けた地点に印を入れた地図を手に、当時の様子を語る岡部茂さん(前
橋市の自宅で)
◆前橋の岡部さん 20日、高崎で講演
日本統治時代の台湾で生まれ育った「湾生(わんせい)」の岡部茂さん(97)(前橋市)が20
日、高崎市で講演する。岡部さんは印刷業に携わり、太平洋戦争突入前、軍部に南方情報の印刷を
依頼され、戦争末期には紙幣も刷った。戦後70年の今年、「第一の古里」という台湾への思いを初
めて語る。
台北市で生まれた岡部さんは、台北州立台北第一中学校(現・台北市立建国高級中学)を卒業
後、18歳で父親が営む市内の印刷会社に入った。医学専門学校の元学寮を会社兼住宅に使い、周囲
に米国領事館などがあった。
鉛を使わず平らな版面で作る、当時最先端の「オフセット印刷」を導入し、台湾人向けの学校の
教科書やはがき、切手を手掛けた。
ある日、米軍基地があったフィリピンなどの空撮写真や、食べられる野草に関する文書の印刷を
軍から依頼された。「不思議だったが、間もなく太平洋戦争に突入。南方作戦への出兵が始まっ
た」と振り返る。
米英軍に制海権を奪われた戦争末期、本土で印刷した台湾紙幣の海上輸送ができなくなると、空
輸された原版を複製して紙幣を刷ったという。
1945年5月31日の米軍による台北大空襲が脳裏に焼き付いている。戦時統制により1社に合併され
た印刷会社で朝、会議中に警戒警報が発令され、約1時間後、大型爆弾が落ちて同僚2人が死亡し
た。台湾総督府(現総統府)や軍事施設が爆撃を受け、消防団員として消火作業中に多くの遺体を
見た。のちに結婚する妻の家族らも命を落とした。約3000人の犠牲者が出たとされ、「戦争の悲惨
さを痛感した」と話す。
終戦で印刷技術の指導のため抑留徴用された後、46年12月に引き揚げた。父の郷里・前橋市でた
だ一つあった印刷会社に腕を買われて就職。隣の読売新聞前橋支局から号外印刷を請け負った。初
めて手掛けた号外は、48年11月12日に東条英機元首相らA級戦犯に言い渡された極東国際軍事裁判
(東京裁判)の判決。「今でも大事に保存している」と話す。
母校の台北建成小学校の同窓会役員として訪台を重ね、老朽化した赤れんが校舎の保存に尽力。
修復後の校舎で2001年、台湾人の元級友らと交歓した。高齢化で約2000人いた会員は半分に減った
が、「来年も思い出の地を巡りたい」と元気に話す。
講演会は20日午後1時半から高崎市末広町の市中央公民館で開かれる。入場無料で定員100人。
問い合わせは主催の台湾悠遊倶楽部・山本厚秀さん(027・352・7691)。