両岸交流30年の第2の視点─失落した台湾経済  黄 天麟(台日文化経済協会会長)

【台日文化経済協会通訊:2017年12月(第39期冬期号)】

 30年前の1987年11月2日、蒋経国は台湾人の中国親族訪問を開放した。国民党は「両岸交流30年」と銘打って祝賀イベントを開催し、大陸委員会もまたこれに合わせて「両岸交流30年の回顧・ビジョンシンポジウム」を開催したが、問題は果たしてこの日が台湾にとって、祝賀記念に値する日だったのか、或いは「光復節」と同じように悲劇の始まりだったのかという点である。

 親族訪問は、「人道的」な見地からすれば価値あるものだが、台湾は特殊な環境にあって、中国は常に台湾を呑み込もうとする敵対国家であり、中国との30年来の交流は、「あの日」から台湾の衰退が始まったことを証明している。

 1980年代の台湾は全盛時代で、平均経済成長率は8.48%、1987年には経済成長率12.7%で、この良すぎる経済が「老兵の親族訪問」政策の実現を促したという社会的背景がある。当時、台湾のGDPは中国全体のGDPにも匹敵する規模であったことから、老兵の帰郷は福の神を迎えるような大歓迎を受けたが、これによって台湾経済の奇跡を持続させる基盤であった「三つのノー政策」は崩壊した。

 台湾は地理的に巨大な中国大陸の縁に位置し、先天的に中国と一体化していたなら、その辺境であったはずである。中国の貧富に関わらず、台湾は常に吸収され、貧しい時には台湾の財や投資が、富める時には台湾の人や資金が吸収されており、中国との関係を断ち切りさえずれば、台湾は自由な経済体として飛躍することができる。「三つのノー政策」はこの経済原理の信憑性を証明している。

 「親族訪問」によって、両岸交流のゲートが開かれた。一旦、ゲートが開かれると、親族訪問から観光へ、観光から投資へと進み、1989年の天安門事件で中国が世界から経済制裁を受け息の根も絶え絶えになると、台湾からの親族訪問は財を、観光は工場と労働者を持ちこんだ。

 中国で工場を設けた「台商」はコストや利率が良く、逆に台湾に残ったメーカーはその打撃を受けたため、その後、台湾メーカーは挙って中国へ移った。台湾の成長エネルギーは激減し、経済成長は1987年の12.7%から1993年には6.8%へと下がり、二桁成長は歴史上のものとなった。

 1990年代の台湾経済成長率は依然として6.6%と中〜高程度の成長率を保っていたが、これは李登輝総統の「急がず辛抱強く」(戒急用忍)の政策によるものである。「急がず辛抱強く」は簡単に言うと、「政治力」を通じ、台湾が耐えうる程度の経済政策によって中国に吸い取られるのを防ぐことで、企業の中国投資に上限を設ける等し、ある業種(例えばウエムーや金融)については中国進出を認めなかった。

 1999年までは、台湾の海外生産比重は19.28%、中国への輸出依存も23.8%の低水準に抑えられており、これによって台湾の半導体は今日でも世界を牛耳る地位を築く基礎を作った。

 陳水扁政権は、2001年に「急がず辛抱強く」の政策をやめ、積極的な開放政策を採った。台湾のIT産業(携帯やパソコン)は4年の間に台湾からなくなったが、中国では同時期に大きく台頭し、2006年のGDP成長は12.68%で、IT産業の世界王国にのし上がった。2007年における台湾の対中国輸出依存度は40.7%・海外生産比重は46.13%に達し、平均経済成長率は4.86%に低下した。

 馬英九が開放した全面的な三通とECFA政策によって、台湾の対中国依存は日に日に高まり、台湾経済は瞬く間に失墜し2015年の経済成長率は0.65%まで落ち込んだ。

 これらはいずれも中国に対して開放した結果であるが、それでも「両岸交流30年」を祝賀すべきなのだろうか?

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