◆はじめに
今回の台湾通信では2018年11月11日に台湾で開催されたバシー海峡戦没者慰霊祭について報告させていただきます。この慰霊祭は今年で4回目ですが、私は初めての参列です。1回目は恥ずかしながら後で知りました。2回目の時には参列申込みをしたのですが、慰霊祭直前に肺がんの手術で入院、3回目の時も直前に腰痛が悪化し、歩けなくなり、共に参列かないませんでした。今回は今年こその思いで参列いたしました。
◆慰霊祭の様子
ここは台湾最南端に位置する墾丁国家公園内の潮音寺の二階本堂、午前11時、参列者一同着席して、静かに待ちます。司会者の「先ず国歌斉唱を行います」のひとこえ、全員起立、前奏に続いて国家を歌いました。異国の地で日本の国歌を歌う、私は2度目です。1回目は語学勉強のクラスで日本紹介の課題を与えられ、教室で外国人の同級生10人ほどの前で一人国歌を歌いました。今回は慰霊祭参列者と共に歌うのです。日本で国歌を歌う場面では多くの人々が小さな蚊の鳴くような声で歌うのですが、ここは異国、全員大きな声で歌いました。実に爽快な気分です。
国歌斉唱に続いて来賓である公益財団法人日本台湾交流協会高雄事務所長中郡錦蔵氏が「追悼の辞」を述べられ、台湾日本人会常務理事高橋伸一氏が「弔辞」を述べ、そしてバシー海峡戦没者ご遺族代表の飯田健二郎氏が「遺族代表の言葉」を述べられました。
続いて、台中の寳覺禅寺から来られた3人の若いお坊様による読経がありました。このお経が大変長く、若いお坊様が心を込めて慰霊くださったかと思われました。読経の合間に参列者は次々とお焼香させていただきました。
寳覺禅寺はご存じの方も多いと思いますが、日本統治時代に台湾で亡くなられた日本人の墓地を永年維持管理し、また、「台湾の靖国神社」と称される「英魂観音亭」が建立されており、日本と深い関係があるお寺です。
◆バシー海峡戦没者慰霊祭とは?
バシー海峡は台湾の南端とフィリピンの間に位置する海峡で、太平洋と南シナ海を結ぶ交通の要衝です。先の大戦時、日本の輸送船団が米軍潜水艦の餌食とされ、多くの日本人が亡くなりました。その数は10万人とも20万人ともいわれますが、この海に眠る戦没者は長い間日本から忘れ去られていました。
戦後70周年にあたる3年前、バシー海峡戦没者への唯一の慰霊施設である潮音寺にて、初めての慰霊祭が執り行われました。本来国が執り行ってしかるべき慰霊祭を企画実施したのは後に紹介する民間のボランティアによる「実行委員会」の皆さまでした。
第1回目の慰霊祭は2015年8月2日、大変暑い日に催行されましたが、この時、日本国窓口機関である公益財団法人日本台湾交流協会台北事務所代表沼田幹夫氏が弔辞を述べるという画期的な慰霊祭になったとのことです。そしてご遺族の方々をはじめとする多くの方々による、継続してほしいという要望があり、2、3回目は11月という台湾で一番しのぎやすいと思われる時期に催行されました。
◆海岸で菊の花を献花
今回の慰霊祭は読経、焼香、記念撮影のあと、我々は潮音寺の目と鼻の先にある猫鼻頭(まおびとう)公園に参り、バシー海峡を望み見ました。この日のお天気は素晴らしく、青空には白い雲が浮かび、波静かなバシー海峡は正に紺碧の海、この美しい海で多くの日本人が亡くなられたかと思い、静かに手を合わせました。そして近くの後壁港漁港沿いの海岸に参り、白菊の花を海に献花しました。ご遺族の方であろう、持参された写真を海に向け、静かに手を合わせるお姿に胸を打たれました。ご家族でしょう、海に向かって話しかけておられる方も・・・・。
◆潮音寺
戦時、沢山のご遺体が漂着したという海岸の近くに建立されたお寺、潮音寺は中嶋秀次氏が昭和56年に私財をなげうって建立されました。
中嶋氏は昭和19年、バシー海峡で乗艦の輸送船「玉津丸」が撃沈され、12日間漂流し、奇跡の生還を遂げられた方で、仲間の慰霊をしたいという強い思いで、台湾の民間人の協力を得て潮音寺を建立されました。土地の所有を巡って色々な経緯があったのち、現在は中嶋氏の思いを受け継いだ台湾人鐘佐榮氏が土地・建物共に所有され、寺の運営維持管理は潮音寺管理委員会が執り行っています。
◆バシー海峡慰霊祭実行委員会
この度の慰霊祭を企画、実施、運営の労を取って下さった実行委員会の皆様についてご紹介いたします。
実行委員長は台湾でコンサルタント会社を経営しておられる渡邊崇之さんです。渡辺さんは、かつてこの台湾通信でご紹介した「廣枝音右衛門警部慰霊祭」の主催者でもあります。実行委員として坂端宏治さん(台北在住 渡邊さんの会社に勤務)と権田猛資さん(台北在住 学生)、運営ボランティアとして桜庭律子さん(日本在住 日本語教師)と江孟庭さん(台北在住 医師)の4人が名を連ねておられます。
実行委員・運営スタッフの皆さんは揃いの白いTシャツを着ておられましたが、その左胸には「銘心鏤骨」と書かれたマークがありました。中日辞典には「銘心鏤骨」は成語で、「心に銘記して永遠に忘れない。人への熱い思いをいう場合に用いることが多い」との説明がありました。
渡邊さんたち実行委員会の皆様が作成されたパンフレットに次のような一文がありました。「『人は二度死ぬ』と言われます。一度目は肉体的な死。そして二度目は後世の者たちの記憶から忘れ去られた忘却による死。私達はこのバシーの海で散華された戦没者たちを二度死なせぬよう、『銘心鏤骨(めいしんるこつ)』(「銘心」は心に刻むこと。「鏤骨」は骨に刻むこと)を本慰霊祭のスローガンとしました。この合言葉を胸に、皆様と共に、鎮魂のために戦没者に感謝の誠を捧げ、無念の思いで散華した先人を偲びたいと思います。」
今回の慰霊祭に参加された方はおよそ90人、バス2台でのツアーでしたが、それをたったの5人のスタッフで取り仕切ってくださいました。このスタッフの方々のお仕事は当日のバスツアーと慰霊式典だけではありません。事前準備は当然、前日に行われた懇親会、当日の慰霊祭終了後にはバシー海峡戦没者を偲ぶ夕べが開催されていました。
◆おわりに
今回参列し、色々な方々が述べられた感想や参加の動機などをお聞きして、特に感じたことは、慰霊に来たくても来られない人々が沢山おられるということでした。祖父が、叔父さんが、義理の伯母さんの御兄弟が、あるいは尊敬する誰それさんがバシー海峡で亡くなられたことを知り、かねて慰霊したいと思っていても、なかなか来られるものではないとのことでした。
私は遺族ではありませんが、たまたま台湾に住んでおり、この慰霊祭の事を知り、参列することができました。多くの台湾の方々のお世話によって潮音寺が維持管理され、多くの有徳の若者たちのお力によって、まったく無私のお気持ちによって慰霊祭が執り行われていることを知りました。
戦争のために、お国のために尊い命を失った方々の事を忘れてはいけない、参列することができる人は、一人でも多く参列することが亡くなった方々の御霊をお慰めできるのだということをつくづく感じた次第です。日本からですと確かに渡航費、宿泊費はかなりなものになるでしょうし、年とった方は独りではなかなか参加も難しいでしょう。幸い台湾におります私は、実行委員会が準備くださったバスの代金と昼食代のみの負担(1500元)で参加させていただきました。
私は来年も来られるかどうかわかりませんが、可能な限り参列したいと思いますし、周りの皆様にご参列くださるように働きかけたいものと思います。
私もかつて色々な催しを開催した経験がありますので、スタッフの方々の御苦労は推察できます。実行委員会の皆様、このたびは本当にご苦労様でした。ありがとうございました。