彼女は79年の来日時、インドネシアのパスポートで来日しようとし、旅券法違反で国外退去処分を受けた。ここには72年の日中国交正常化、すなわち日台断交が陰をさしていた。だから当時、台湾の方は2つのパスポートを持っていた。このまま、台湾に帰るとテレサの再来日が難しくなると考え、そのまま彼女を米国に行かせたのは、当時のレコード会社の舟木稔氏だった。その翌年80年にテレサは台湾の中華民国軍の広報活動の仕事をした後、香港に移り住む。
84年にやっと再来日し、この年から3年連続で大ヒット曲を飛ばす。「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」である。私が社会人3年目の年「つぐない」が大ヒットした。残業した後、行ったカラオケで先輩がよく「つぐない」を歌っていた。
この後、生活の拠点を再び香港に移し、中華人民共和国の民主化運動に参加するが、89年に天安門事件が起きた。「夢は殺され、夢は見ることさえできなくなってしまった」という彼女の言葉は有名である。90年に予定されていた中国本土でのテレサの初コンサートは中止された。この挫折は歌手テレサテンの再起を難しくした。この後、アジアからフランスに移り住み、最後はタイで客死した。42歳の若さだった。
台湾、香港、日本、米国、フランスと移り住んだ短い人生は、渡り歩いたという感さえある。そんな中でも、19歳までいた故国・台湾と、通算約8年間いた日本は安住の地ではなかったかと思う。
なぜ、彼女がこのような過酷な人生を歩んだのかは分からないが、ご両親が外省人だったことも影響があったと思う。日台和平のような気持ちが幼い時から意識下にあったのだろう。中華人民共和国が彼女の歌声を不適切と判断したことも関係あろう。最後の棺を覆ったのは中華民国の国旗と軍旗であったというから、こっちの影響もあったと推測する。
私たち日本人がそのシルキーボイスに酔う間、彼女は中台融和や大陸の民主化を考えていたようだ。
最後に、最近知った先の舟木氏の言葉があるので紹介させていただく。「慈善活動に熱心だったテレサがまだ存命なら、東日本大震災後の復興に力を注いでいたに違いない」。アジアの歌姫以外に、中台関係に悩み、疲れを蓄積していった国際人の姿を見る思いだ。
(2018年1月11日)