1月25日、地元の東京都昭島市内の葬儀場で通夜が営まれ、台湾協会元理事長の齋藤毅氏や森田高光・現理事長、中村信子さんなど有縁の方々80名ほどが参列しました。翌26日に告別式が行われています。
東京台湾の会会長の任にあった5年前の2013年4月、喜久先生は教育者として長く岐阜県教育界の発展に寄与された功績により瑞宝双光章を授章。6月14日、有縁の方々が集まり都内で「喜久四郎氏叙勲記念祝賀会」を開いたことがありました。呉正男氏が発起人代表として経緯を説明し、来賓として台湾協会理事長だった齋藤毅氏が挨拶、亡くなられた三宅教雄氏が乾杯の発声をするなど本当に心のこもった祝賀会を楽しまれ相好をくずされていた喜久四郎先生のお顔は忘れられません。
東京奥多摩町の小河内ダム(奥多摩湖)に注ぎ込む峰谷の右岸山林内「笠松展望台」に建立されている台湾人戦没者の慰霊碑・慰霊塔における慰霊祭は2011年、喜久先生のご発案ではじめられ、今に続いていることも忘れ難い思い出です。
なお、通夜の席において、喪主であるご長男の喜久豊様から「故喜久四郎を偲んで頂ければと父の歩みをまとめてみました」といって、そのご生涯を紹介されましたのでここにご紹介し、ともに偉大な先達をお偲び申し上げたいと思います。
◇ ◇ ◇
父は大正14年2月7日、台湾原住民地区の警察官の5男として台北州ピヤハウ社にて生まれました。日台共学の台北州立大平山小学校、台北師範学校を卒業、昭和19年台湾花蓮郡吉野国民学校訓導に就きました。
半年後兵役で入隊、翌20年終戦除隊、教職に復帰したものの、昭和21年台湾から従兄弟を頼って岐阜県萩原町(現・下呂市)に引揚げました。
昭和13年群馬県久留万国民学校に助教として赴任、そこで天野富子と知り合い、結婚。その後昭和24年岐阜県に戻り、羽根小学校、竹原中学校、和川小学校、小坂中学校、総島小・中学校、三之瀬小学校、荒城小学校、中切小・中学校と歴任、その間昭和25年には長男の豊、29年に長女の泰子、31年に次男の徹が生まれました。
最後は統合馬瀬中学校校長で40年間の教職生活の幕を下しました。
退職後、昭和60年からは現在の東京都昭島市に妹の出口泰子夫婦と共に移り住んでおりました。平成7年に母は他界しましたが、昭島での30年余の生活は、生まれ育った台湾に対する望郷の念をエネルギーに、まさに 台湾命 でした。
東京台湾の会を始め、台湾大平山会、台湾協会、台北師範学校芳蘭会の方々とともに様々な活動をしておりました。台湾にはかれこれ数十回赴き、また自宅では明けても暮れても台湾についての書物を読み、友と語り合う日々でした。
あと2週間ばかりで93歳になろうかとしていた父の人生は台湾、岐阜県、群馬県、そして東京と波瀾万丈なものでした。
台湾での同窓生、教職生活でのお仲間、教え子の皆様、東京へ来てからの日台友好活動のお仲間など、たくさんの方々のご厚情により、父が天寿を全うできたことをここに改めて深く御礼申し上げます。
喪主 喜久 豊