蔡さんは日本統治時代の昭和2年、台湾中部・台中市で生れた。台中の彰化商業学校を卒業した後、志願して少年航空兵となり、敗戦の年昭和20年1月、岐阜陸軍航空整備学校の奈良教育隊に入隊。台湾・基隆から内地への輸送船には、偶然にも学徒出陣で徴兵された李登輝元総統も乗船していたと云う。
敗戦を日本で迎え、台湾に戻ってからは体育教師などを経て電子機器会社社長を務めた。司馬遼太郎の『台湾紀行』に「老台北」として登場する。李登輝元総統と親交が深く「日本語世代」の代表的存在として日台交流に尽力された。親日家ではなく、自ら「愛日家」を名乗っておられた。
蔡さんが代表を務めた「台湾歌壇」は今年4月、創立50年を迎えた。創立者の呉建堂さんが亡くなった後、剣道仲間だった蔡さんが代表になった。呉建堂さんの詠んだ短歌。
万葉の流れこの地に留めむと 命の限り短歌(うた)詠み行かむ
蔡さんはこう詠んでいる。
台湾を護る責あり益荒男の 血潮たぎりて歌壇に入る
蔡さんに初めてお会いしてから20年以上になる。6年前に亡くなられた台湾建国独立連盟主席の黄昭堂さんのご紹介だった。以来、台湾に行くたびに必蔡さんとお会いした。
蔡さんの紹介で、2・28事件で兄弟を失った方々から白色テロの苦難の時代の話を何度も聞いた。日本統治時代に学生時代を過ごした方々が、蒋介石による国民党支配を呪詛していることを知った。皆さんは李登輝政権を支持し、台湾独立を実現すべきだとの意見だった。総統の任期は憲法の規定で、1期4年で2期まで。だが、大多数の皆さんは憲法を修正して任期を延長し、李総統の手によって台湾の独立官言をすべきだ、でなければ永遠にその機会を失うと主張していた。残念だが、それは大きな声にはならなかった。
17年前の春、李登輝総統の国策顧問を務めておられた奇美実業の許文龍さんを紹介して下さった。蔡さんや黄昭堂さんらと許文龍さんの台南市の自宅を訪ね、許さんのバイオリン伴奏で日本統治時代の唱歌を合唱したことを思い出す。蔡さん得意の曲の一つが、1932年のロサンゼルス五輪の応援歌「走れ、大地を!」で、機会ある毎に聞かせて下さった。いまも蔡さんの優しく響く美声が耳朶に残っている。
李登輝さんが総統在職当時、蔡さんご夫妻と総統公邸で御馳走になったことがある。総統ご夫妻と蔡さんご夫妻は楽しそうに語らい、私も大いに台湾独立論を語った。総統の書庫に案内され、赤鉛筆でアンダーラインを引いた岩波文庫がびっしりと収められていたことがはっきりと記憶に残っている。
蔡さんは平成12年7月に『台湾人と日本精神」を上梓された。だが翌年、版元の日本教文社が突然絶版にした。私は蔡さんの了解を得て、高池勝彦弁護士と、議員になる前の稲田朋美弁護士に依頼、版元に訴訟を起こした。残念ながら一審敗訴となったが、小学館から文庫本として再出版することができた。
蔡さんは同書のあとがき「愛日家の遺言」にこう記している。
<素晴らしき日本統治時代を知る生き証人が次々とこの世を去ってゆく悲しみは筆舌に尽しがたい。だが、私はこうして元気で暮らしている。もしかすると「老骨に鞭打ってでも、かつての祖国・日本にエールを送り続けよ」という先に逝かれた方々の思し召しなのかもしれない。(中略)
私は死ぬまで日本と日本人にエールを送り続ける。自虐史観に取り付かれた戦後の日本人に、かつての自信と誇りを取ゆ戻してもらいたいのだ。どうか日本の皆さんにお願いしたい。かつて文豪・司馬遼太郎先生がそうであったように、台湾にお越しいただいて自らの足で台湾を確かめ、そして自らの目で台湾を見てほしい。
なんどでも言わせていただく。
「日本人よ! 胸を張りなさい!」
愛してやまない日本国と日本人へ、私からの”遺言”である。>
いま追悼の原稿を書いているが、蔡さんの姿が走馬灯のように私の脳裏を駈けめぐっている。
蔡さんは私にとって、台湾の父とも云うべき偉大なる存在だった。蔡さん、どうぞ安らかにお眠り下さい。
心からご冥福をお祈りします。
【月刊「日本」平成29年9月号(第29巻9号)】