◆『蔡英文の台湾─中国と向き合う女性総統』張瀞文・著 丸山勝/訳
(毎日新聞出版/税抜き1100円)
選ばれた理由は国際感覚と各方面に目配りできる交渉力
今年の5月に台湾の総統に就任した蔡英文は、日本のみならず、世界中の人々が注目する存在
だ。
女性の政治リーダーというのは、もはや珍しくはない時代だとはいえ、やはり数えるほどしかい
ない。ドイツのメルケル首相や韓国の朴槿恵(パククネ)大統領、やがてアメリカの大統領に選出
されると噂(うわさ)されているヒラリー・クリントンなどが代表格。
その中にあって蔡英文はやや異質の光彩を放っている。世襲の政治家でもなく、強烈な印象を相
手に与える女性でもない。きわめて地味で清廉な雰囲気で、政治家になる前は学者だったというの
もうなずける。
日本の女性政治家を見ても、東京都知事や民進党党首候補、防衛大臣、オリンピック担当大臣な
どが女性だが、芸能人かと見まがうばかりにファッショナブルで華やかである。だからこそ蔡英文
について知りたいと思っていたときに本書と出会った。
南シナ海や尖閣(せんかく)諸島などで海洋進出を急ぐ中国にどう対処するかは、国際的なテー
マである。その最も困難な舵(かじ)取りを迫られている国の一つは間違いなく台湾だろう。本書
のタイトルと副題は、「蔡英文の台湾」「中国と向き合う女性総統」とある。
つまり台湾だからこそ選出された政治家であり、中国とどう向き合うかが国民にとっての最大の
課題なのだ。
その結果、「男臭さと人擦れした在野人士の気風が前面に出るスタイルは、理性的な協調による
ソフトな蔡英文流」にと次第に流れが変わり、彼女が求められるようになったようだ。
本書はそうした過程を丁寧に説明すると共に、台湾の立場を明確に示している。
簡単に言ってしまえば、「一つの中国」という言葉にどう対処するかが大問題であった。それは
中華人民共和国が主張する「一つの中国」であり、中華民国を指してはいないという認識をほとん
どの台湾の人々が共有していた。日本人の眼から見れば、巨大な中国大陸に今にものみ込まれそう
な台湾とも見えた。
蔡英文が発揮したのは、驚くほどしなやかな国際感覚であった。
「彼女の認識をまとめると以下のようになる。両岸関係は2300万台湾人民の利益と長期的な福祉に
かかわる問題であり、対岸との間に平和的で安定した関係を維持すること、台湾民主主義の価値と
将来の自主性を確保することが、台湾の普遍的民意なのである」
ただし、両岸すなわち台湾と中国の安定した関係を維持したくとも、背後にはアメリカ、ロシ
ア、あるいは韓国、日本などの思惑が控えている。
そこで蔡英文に求められているのは国内、国際、両岸の三方面に対してきっちりと目配りをする
交渉能力であろう。
極端な政策や公約を掲げて劇的な変化を期待させ、選挙を勝ち抜くのは日本の政治家も使う常套
(じようとう)手段である。
だが、蔡英文は昨年の5月に現状維持を主張し、支持率は実に6割を超えたという。
ふり返って、日本はどうだろう。諸外国との関係に現状維持を望む声は多い。最も難しいのは現
状を維持したまま、国家の政治的、経済的、文化的発展を続けていくことである。
本書はなぜ蔡英文という人物が国家の運営を委ねられたかを明解に分析しており、まことにタイ
ムリーな刊行だといえる。<サンデー毎日 2016年9月18日号より>
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工藤美代子(くどう・みよこ)
1950年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション
賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる悪運 岸信介伝』『皇后の真実』など