部(嶋津紀夫支部長)が金美齢先生を講師に「いま改めて日台関係を考える」と題した講演会を開
催しました。
東日本大震災から3年。さらに被災地の人々を励ましたいと企画。演題が書かれた看板の下に日
章旗と緑台湾旗が掲げられた会場には約400名が集い、宮城県日台友好親善協会、宮城県台湾同郷
会、宮城県台湾婦女会が共催、宮城県教育委員会が後援しています。
津波の被害から辛うじて逃れた石巻市の本会会員で、東日本大震災直後の李登輝学校研修団にも
参加した高橋俊一氏からレポートを寄せていただきましたのでご紹介します。
なお、レポートは正漢字表記でしたが、読者の便を考慮し常用漢字に改めたことをお断りします。
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「この旗が中華民国旗だったなら、私は回れ右をして帰ったわ」
「主催者はさすが分かってる。李登輝友の会。でも、世間には知らない人がまだまだたくさんい
る。台湾に旗はない」
講演会の始まりはいかにも金美齢さんらしい話題から始まった。続いて「皆さんの誤解を解く」
と称し、世界一美味しい烏龍茶の話題。
ここから金美齢女史の真骨頂、来日から「台湾青年」との出会いへと話題は移り、一つの偶然か
ら身を投じた、台湾人青年達との政治運動が、自身の運命を決定的なものに導く。
特務の影に怯えながらも、台湾の将来を思い、知的行動をしている留学生に、若き女史は、強い
感銘を受ける。
この勇気と知性を兼ね備えた匿名の台湾人青年たちの建国への情熱は、やがて李登輝総統が誕生
することにより、結実する。女史はこれを「台湾に運命の女神が微笑んだ」と語る。
90年代、野百合学運による民主化の道は、就任間もない李登輝総統の権力を磐石なものにして
行った。 現在の「太陽花学運(ひまわり学生運動)」は、立法院長が台湾人の王金平であること
を見越して、学生たちが行動した。彼らは闇雲に占拠をしたのではなく、要所を押さえたのだ。学
生たちは終始秩序正しく、暴力に訴えず、論理的に「反服貿」を伝播させることに成功した。
今回の彼らの勇気は「11月の選挙に必ずやよい影響をもたらすだろう。そして、次の総統選に勝
利すれば、日本と台湾の関係は安泰になる」と、女史は選挙に至る展望と希望を語った。
「安倍總理とはラブラブなの」と言って女史は会場を涌かせた。経緯は、かつて学生時代に総理
の祖父、岸信介の通訳をしていた頃に遡る。
1960年、日米安保闘争が大学を席卷する直前、女史は日本に来日した。当時の学生や日本人を振
り返り、日本のは「大抵ごっこなの」と喝破する。命懸けで「台湾」のために闘って来た女史なら
ではの洞察と言えよう。
女史はかつて、500円が通訳の相場だった頃、2000円で雇われていた。自ら交渉し、勝ち得た
「通訳料」だ。この通訳料は「台湾青年」の寄付に還元され、真摯な同朋たちの活動資金に化け
た。「交渉とはこういうもの」。
岸信介は、台湾と交渉するためにたびたび台湾に足を運んだ。国連から脱退する代償として、蒋
介石に台湾国として加盟させるためだった。なんという慧眼。こういう本物の政治家を選ぶべき。
台湾の重要性(シーレーン等)が分かる政治家こそ本物である。
会場には石巻から来た県議会議員も2人姿を見せていた。石巻から台湾関係の講演に来る県議を
見たのは初めてだった。さぞ耳が痛かったに違いない。
女史はまた経済界が儲けに走るのはおかしなことではないと指摘。儲けるべきは儲ける。しか
し、政治は別。政経分離を徹底すべき。しかし、国民は国産を買うべきだ、と。仙台の人は仙台の
もの(牛タン他)を。私はメイドインジャパンを選び、購入している。
東日本大震災では自身デザインのTシャツを作った。大量のカタログから唯一の日本製を選び、
結果、高くなったTシャツを作った。 女史は「私はモデルになりたかったの。しかし、30センチ
身長が足りなかった」といって会場の笑いを誘う。次に「私はデザイナーになりたかった。しかし
絵が下手くそときている」と続けて会場は和やかな雰囲気に包まれた。
このTシャツを目印に、台湾ツアーを企画した。よく聞かれるが、すでにこのTシャツは完売し
ました。そして、いま会場にいる方々にも、女史主催による台湾ツアーの提案をした。会場入口で
販売しているお茶が目印。これで一緒に台湾に行きましょう。
講演来場者は、金美齢女史の豊富な話題と波乱の半生に終始聴き入っていた。他にも緑と青の違
い、半島と台湾の違いなど素朴な話題から、烏山頭ダム、インフラ整備や日本教育の正当な評価
等、普段台湾のことを知りたくても既存のメディアがなかなか報道してくれない話題を中心に、途
中退席もなく、360席準備した席も、いつの間にか足りなくなっていた。
金美齢女史が準備した書籍(宗像隆幸・趙天徳編訳『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』)と
高山茶が完売したのはいうまでもない。