第2部も1部開始と同様になんと1面トップの扱いで、驚かされました。かつては連載小説が1面に載るのは珍しいことではなく、読者は毎朝、一面下段に載る連載を楽しみにしていたものでした。
しかし、連載が1面のトップ記事として掲載されるのは異例で、2部の開始も1面トップというのはさらに異例の扱いです。
本日の第2部2回目の「日本統治下に生まれて(2) 世界史教師の道を阻まれ」も1面掲載でしたが、さすがに紙面の左でした。
節目の第2部開始ですので、昨日の連載「日本統治下に生まれて(1) 22歳まで『日本人だった』 明治政府は教育から始めた」を下記にご紹介します。日本統治時代の教育がテーマで、李登輝元総統が日本式の教育を受けて育った人間形成の軌跡を描くそうです。蔡焜燦先生も連載初登場です。
—————————————————————————————–「李登輝秘録」(12) 第2部 日本統治下に生まれて(1) 22歳まで「日本人だった」 明治政府、教育から始めた【産経新聞:2019年4月25日】https://special.sankei.com/a/international/article/20190425/0001.html
明治後半から大正を経て第二次世界大戦が終結した昭和20(1945)年までの50年間、台湾は日本の統治下にあった。李登輝(り・とうき)は、台湾社会の構造や人々の生活様式が日本化されつつあった大正12(1923)年に生まれた。旧制の台北高等学校から京都帝国大学(現・京大)に進み、日本式の教育を受けた。戦後の台湾で総統に上りつめた李の、日本統治時代を通じた人間形成の軌跡をたどる。(敬称略)
「22歳まで日本人だったんだ。ここまでね」
李は満面の笑みを浮かべながら、右の手のひらを水平にして、首まで持ち上げてこう話した。
李の両親の家系は、何世代も前の祖先が中国大陸から台湾に渡ってきており、李に「日本と血のつながり」があるわけではない。それでも「私たちの世代の台湾人は純粋な日本精神がある」と言ってはばからないのは、もっぱら教育を指してのことだろう。
日本の統治が始まった1895(明治28)年、台湾人子弟向け日本語学校「芝山厳(しざんがん)学堂」が台北で開校した。その3年後には「台湾公学校(こうがっこう)令」が公布され、台湾全土に初等教育が広がっていく。李は、「明治政府は植民地経営をまず、教育から始めた」と話し、植民地を世界に広げていた欧米諸国との違いを指摘した。
「台湾史小事典」(中国書店)によると、家庭内で台湾語など地元の言葉を使う子弟向けの公学校は、1941年の段階で台湾全土に820校を数え、「あいうえお」から日本語を教えた。李は警察幹部だった父親の転勤で公学校時代に4回も転校したというが、学校がない地域はなかった。
両親が日本の教育を受けて、家庭でも日本語を使う台湾人の子弟や、内地(日本本土)出身など日本人の子供が通った小学校は、同時期に150校あった。
司馬遼太郎著「街道をゆく四十『台湾紀行』」(朝日新聞社)に司馬の案内役として登場し、李とも交友が深かった蔡焜燦(さい・こんさん)(1927〜2017年)は、自身の母校である台中の「清水(きよみず)公学校(現・清水国民小学)」を2015年に訪れ、当時を振り返った。
「昭和10(1935)年当時、内地にも少なかった『視聴覚教育』が清水公学校にはあったんだ」
蔡は講堂の建物を案内しながら、「ここで映画を見せてくれたり、内地から招いた琵琶法師の生の演奏を聴かせてくれたりした」と思い出話に花を咲かせた。
レコードで音楽やラジオドラマなどを校内放送したという教室の建物も、当時のまま使われている。
童謡や浪花節、軍歌など公学校時代に習ったという歌や日本神話を蔡は晩年もほとんどそらんじていた。「目と耳で学習できた日本の教育のおかげ。世界観が広がったんだよ」と笑う。
蔡は「台湾人を差別した日本人もいたにはいたが、台湾人の子供にも熱心で優しく接した日本人の教師の存在は忘れない」という。
台湾での日本語による教育の普及は、統治する側の日本に「植民地政策を貫徹させるため」との狙いがあったことは、李も蔡も理解している。
それでも李は、「数学や物理、歴史、哲学など、新しい知識を(日本語を通じて)吸収することができた」と考えている。
日本統治以前の台湾で教育といえば、富裕層の子弟が私塾に通って中国古典を学ぶか海外に出る以外、ほとんど方法がなかった。
公学校のころ、李は小学館の「児童百科事典」を繰り返し読み、淡水中学校に進んだころには古事記、源氏物語、徒然草なども読破し、最難関の旧制台北高校の受験を目指していた。