「日本代表」として五輪に出場した台湾人アスリート陸上選手・張星賢 近代日本とアジアの激動映す足跡樋浦 郷子(ひうら さとこ)=国立歴史民俗博物館准教授【日本経済新聞:2021年2月1日】https://www.nikkei.com/article/DGXKZO68643790Z20C21A1BC8000/
植民地下の台湾で、日本人として五輪に出場した陸上選手がいた。名を張星賢という。2014年に台湾歴史博物館と私が籍を置く国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は、相互交流に関する協定を結び、共同研究を進めている。17年にはお互いが経験した近現代の地震に関する展示も行った。それが一段落し、次のテーマを探っていた際、台湾側から出てきたのが張の名前だった。
私は、大学のころから日本の植民地支配の歴史に関心を持ち、台湾や朝鮮について学んできた。知識がないわけではなかったが、その名を聞いたことはなく、一緒にいた日本側のメンバーも皆同様だった。「誰も知らない」ことが興味深く、研究がスタートした。
台湾歴史博物館には、多数の五輪選手の記録が所蔵されている。張については近年、家族から日記や各大会で獲得したメダルなど大規模な寄贈があった。資料を基に、彼が出場した大会の足跡を新聞記事を参照し、同僚とともに追った。
張は1910年、日本統治下の台湾の台中に生まれた。陸上の才能を開花させ、早稲田大学に進むと競走部に入った。翌32年に米ロサンゼルス五輪に400メートル、400メートルハードルの日本代表として出場。台湾人として初の五輪選手となった。卒業後は南満州鉄道に入社し、そこでも日本代表となり36年のベルリン五輪にも出場している。
日本にスポーツという概念が入ってきたのは明治になってからだ。膝を曲げた状態のなんば歩きや猫背は江戸時代までは当たり前のことだった。富国強兵による徴兵制度や学校制度における体操科目の展開のため、国民は急速な身体の変容を迫られた。運動会もその名残で、行進を通し、体を西洋的に「鋳なおす」ための役割を果たした。
スポーツの浸透につれ、国際大会で結果を出すことが目標となっていく。1896年に始まった近代五輪がその舞台となり、1912年のストックホルム大会に初めて参加した。アジアの植民地化を進めた時代と日本のスポーツ普及の時期は重なる。張が登場したのは、そんな時代だった。
共同研究を進めるにつれ、張の資料を読み解くことは、近代日本と世界の関係を読み直すことだと思うようになった。張が生きた時代は歴史的知識としては広く共有されている。にもかかわらず、現代日本で「日本代表」として活躍した張を知る人はほぼ皆無だ。要因の1つには、成果主義の五輪報道の中でメダルを獲得できなかったということがあるだろう。また戦後、国境線の引き直しに伴い、旧植民地への積極的忘却があったことも理由の1つだ。張の人生を通し、私たちが何を記憶し、何を「見てこなかったのか」という歴史的叙述ができると思う。
戦後、張は台湾で指導者になるが、日本代表として五輪に出場したためか、重用されることはなかった。本人は生涯、台湾人としての誇りを忘れなかったが、理解されなかった。1964年の東京五輪にコーチとして参加することもかなわず、89年に生涯を閉じた。日本からは忘却され、台湾でも忘れられた。張の人生には東アジアの近現代史が深く刻まれている。
研究成果をまとめた特集展示「東アジアを駆け抜けた身体(からだ)─スポーツの近代─」が3月14日まで国立歴史民俗博物館で開催中だ。張を筆頭に、近現代の東アジアの歴史と人間の生き様を連動させることで、歴史を見直してみたい。これまでの五輪の見方に新たな視点を加えられればと思う。
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