(台北 4日 中央社)20年近くにわたり台湾の人々を取材し、ドキュメンタリー映画を制作している日本人映画監督、酒井充子さん。酒井さんは先月下旬から、台湾本島をぐるりと一周する巡回上映会を開催している。「台湾を考えることは日本を考えることでもある」と語る酒井さんは先月末、台北市内で作品作りへの思いを語った。
▽台湾での出会い、台湾に対する無知から映画作りへ
日本統治時代に日本語で教育を受けた「日本語世代」と呼ばれる人々が日本に抱く思いをまとめた「台湾人生」(2009年)、戦後の台湾にスポットを当てた「台湾アイデンティティー」(2013年)など、日本統治下を生きた台湾の人々の姿を追ってきた酒井監督。元々映画が好きで、台湾映画を含め世界各国の作品を見ていたが、その中でツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の「愛情萬歳」に出会い、同作の舞台になった台北を見てみたいとの気持ちが生まれた。そして初めて台湾を訪れたのが1998年。その旅行での出会いが、以後20年以上続く「台湾のことしか考えていない」生活の始まりになった。
訪れた台北郊外・九フンのバス停で、70代くらいの男性から、日本統治時代に世話になった日本人教師の話をされた。その時おじいさんが「先生に今でも会いたい」と語っており、戦後50年以上経っているにもかかわらず、そのような思いを抱える人が台湾にいることに衝撃を受けた。(フン=にんべんに分)
以前は台湾について何も知らなかったという酒井さん。知っていることと言えば、教科書に載っていた、1895年の下関条約で台湾や澎湖諸島が清から日本に割譲されたという歴史的事実のみ。「知らなすぎることに対する自身への怒り」が「伝えたい」との思いを生み、自身を映画制作へと突き動かすエネルギーになった。
当時は北海道で新聞記者をしていた酒井さん。後に函館の映画祭の取材で映画人との交流が生まれたのも、映画監督に転身するきっかけになった。2000年に新聞社を退職し、2002年から日本と台湾を行き来しながら取材を行っている。
▽台東を舞台にした「台湾萬歳」 撮影を縁に故郷との懸け橋に
2017年に日本で公開された「台湾萬歳」は、東部・台東を舞台に、そこでまっすぐに生きる人々の姿を通じて「変わらない台湾」を描いた。酒井さんは、日本統治下も、戦後の国民党政権によって戒厳令が敷かれていた時代も、台湾の人々にとっては困難な時代だったと指摘する。そんな困難な時代を乗り越えてきたからこそ今の台湾があるとし、同作では「その原動力を伝えたい」と力を込める。
「台湾萬歳」を上映する今回の台湾一周上映会では、3月20日から4月7日までの約半月で東から西、北から南まで、トークイベントを含めて計17カ所をめぐる。台東の個人書店「晃晃二手書店」がネットワークを通じて声掛けを行い、それに各地の個人書店などが手を挙げてくれたことで実現した。酒井さんにとっては初めての試みだ。上映会では観客から「日本人のあなたがこの映画を撮ってくれてすごくうれしい」という言葉をもらい、「この映画を作ってよかった」と感じたという。
撮影を機に、酒井さんは台東と故郷の山口県周南市をつなぐ懸け橋になろうと考えている。「台湾萬歳」の撮影地となった台東の高校や商工会が周南市を訪問したり、台東で2017年夏に行われた「台湾萬歳」の上映会に周南市の人々が参加したりと、酒井さんの作品を通じて両県市で民間レベルの交流が生まれた。一過性のものではなく、「細くても長く続けていけないか模索中」と目を輝かせた。
次回作の題材は台東の離島・蘭嶼。現在は取材を進めている段階で、来年末の完成を予定する。これまで「台湾を通して日本のことを見る」ということを作品作りを通じて行ってきたという酒井さんは、「蘭嶼と台湾本島の関係性は、日本における沖縄と本土の関係性に似通ったところがある」と考察する。「蘭嶼を見ていくことで日本も見えてくるのではないか」と意欲を見せた。
▽ドキュメンタリー制作 「台湾を考えるきっかけに」
近年、台湾では「湾生回家」(ホァン・ミンチェン監督)や「海の彼方」(黄インイク監督)など日本統治時代の歴史を背景にしたドキュメンタリーが相次いで公開されている。その理由について「当時を知る人がそろそろいなくなってしまうという危機感」が大きな要因なのではないかと酒井さんは推察する。自身が取材を始めた当時はそういった危機感はなかったが、「台湾人生」の完成からこの10年で取材対象者が相次いで亡くなり、「ラストチャンスだったんだ」と振り返ってみて感じたという。
1本の映画がきっかけで、台湾に関するドキュメンタリーを手掛けるようになった酒井さん。「(自身の)作品をきっかけに、台湾のことを思ったり考えたりする人がいればいいな」。そんな思いで映画を撮り続けている。
(名切千絵)