総括─シンポジウム「日台関係の50年」  渡辺 利夫(日本李登輝友の会会長)

総括─シンポジウム「日台関係の50年」  渡辺 利夫(日本李登輝友の会会長)

 今回のシンポジウムは「日台関係の50年」でありますが、李登輝先生を皆様とともに偲ぶこと、これもこのシンポジウムの目的であります。総括ということですが、李登輝先生に対する、私どもの、私の想いを申し上げて終わりにさせていただきたいと思うのです。

 平成19年(2007年)のことですが、旧知の中嶋嶺雄さんから、李登輝先生が「奥の細道」探訪のために訪日したいという強い意思をおもちであること、その際には拓殖大学を訪れてもいいという趣旨の伝言を頂きました。心躍る気分でした。ちなみに拓殖大学は、その草創期に、李登輝先生が敬愛する後藤新平や新渡戸稲造が活躍した大学であります。

 私は当時、この大学の学長職にあったのですが、事前に直接お目にかかってご挨拶をしておかなければ礼を欠くと考えまして台湾に赴きました。大いなる人物との初めての面談でしたが、不思議に緊張することはありませんでした。対する者を温かく包み込む悠揚な雰囲気、あの瞬間を私は決して忘れることはありません。「拓殖大学には必ずまいりますよ」と切り出され、その話はそこで終わり。残りはほとんどが日本の政治状況やご自身の青春時代の話でした。

 平成19年の6月7日、李登輝先生は午前中に兄上の眠る靖国神社を参拝され、その後12時半頃に大学にお着きになられました。大学幹部は全員緊張の面持ちでしたが、話が始まりますやにわかに部屋の雰囲気が和らいでいったことをよく覚えております。

 2年前、李登輝先生の訃報に接して機に改めて深く感じさせられたことは、李登輝先生のあのゆったりとした雅量に富んだお人柄は、きっと先生の政治的人生が作り出したものではないかという思いでありました。

 台湾は長らく分断社会でした。深層部に「省籍矛盾」を抱えてきました。国共内戦に敗れた国民党が台湾を接収、敗走してきた国民党の軍人・軍属など多くの大陸出身者が台湾に流入してきました。彼らは「外省人」と呼ばれ、以前から台湾に住まっております「本省人」とは異質の社会集団を形成しました。新たな支配者となった国民党の専制政治にはすさまじいものがありました。

 本省人は無権利状態のままにおかれ、その本省人と外省人との軋轢の象徴が「二・二八事件」です。この事件によりまして、台湾社会の分断は決定的になってしまったのです。台湾の社会統合をいかに図るか、李登輝先生の胸中をつねに懊悩させてきたテーマがこれであったと私は考えています。

 李登輝先生は、外省人の権力の懐に深く入り込み、そこから台湾社会の統合を実現するより他に道はない、そう決断して国民党に入党します。そして往時の権力者・蒋経国氏にその実力を認められ、蒋氏の死後に党主席となり、ついには総統となって台湾の民主化を成し遂げた人物、これが李登輝先生です。あの包容力なくして台湾社会の統合はなかったものと思われます。

 決定的であったと私が考えますのは、1995年2月28日に台北新公園で執り行われた「二・二八事件記念碑落成式」におきまして、李登輝先生ご自身が事件の犠牲者と遺族に対して公式の謝罪を表明したことであります。その時の映像が私のDVDの中には今も残っております。20数年も前のその光景を見るたびに、私の涙腺もおのずと緩んできます。「省籍矛盾」解消の一大画期でありました。

 ところで、台湾の民主化は、同時に「台湾の台湾化」の動きでもあります。中台は「一つの中国」における内部関係ではない。「国家と国家、少なくとも特殊な国と国との関係だ」という「二国論」の正統性を鮮やかに打ち出したのも、李登輝先生です。「小国寡民」国は小さく民も少ない「小国寡民」台湾の生存戦略、これが「省籍矛盾」の解消と並ぶ李登輝先生の政治的人生における最大の課題でした。蔡英文総統の担う課題でもあります。

 お亡くなりになられてすでに2年、このコロナ禍にありまして、先生を公式に弔うことができないでおります。なんとか今秋あたりに訪台の機会が得られますことを願っております。ありがとうございました。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。

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