李登輝元総統新著『李登輝より日本へ 贈る言葉』の「はじめに」全文

李登輝元総統新著『李登輝より日本へ 贈る言葉』の「はじめに」全文
台湾がまもなく旧正月を迎えようという今年一月末、テレビでは「台湾新幹線の乗務員が日本の
新幹線で接客研修」というニュースを報じていました。聞けば、昨年十二月には日本の新幹線の乗
務員が台湾で研修を行っており、日台交流研修の一環だということでした。

 日本と台湾の密接な関係を象徴するものは数多くありますが、台湾新幹線はその代表的なものの
一つと言えるでしょう。

 日本で研修を受けた台湾新幹線の乗務員は「日本の接客は非常に丁寧。私たちももっと練習して
『おもてなし』の心を学んでいきたい」と感想を述べていましたが、私はこんな形の日台交流もあ
るのかと唸うならされました。

 昨年夏に東京オリンピック開催が決定してから、日本の雑誌や新聞で「おもてなし」という言葉
を目にすることが多くなりました。私も二〇〇五年末、正月を日本で過ごすために家族とともに名
古屋や関西を訪れましたが、そのときに乗車した新幹線のサービスの素晴らしさにほとほと感心し
たのを覚えています。

 新幹線の乗務員は、車内に出入りするたびに丁寧におじぎをし、乗客に細やかな気配りをしてい
ました。通路や座席にはチリひとつ落ちておらず、トイレは常に清潔に保たれている。電光掲示板
には目的地の天候や気温が乗客へのサービスの一環として表示され、私たちを乗せた新幹線は到着
予定時刻ちょうどにホームへとすべり込んだのです。

 私が日頃から常々評価する日本精神を形作っている誠実さや真面目さ、思いやり、滅私の心、時
間厳守といったものが体現されたのが日本のサービスであり、結実したものが「おもてなし」の心
と言えるのではないでしょうか。

 私は、日本人が持つこの精神が改めて素晴らしいものであると強く確信すると同時に、いまでも
日本の社会でその精神が失われずにいることを目にして感激したのです。

 こうしたサービスの分野で台湾が日本に学ぶことはまだまだ多くあります。新幹線を通じた日台
交流が台湾のサービス向上に役立つことを期待しています。

 前置きが長くなりましたが、日本と台湾の結びつきはかくも強く、台湾には昔の日本がいまも息
づいていると同時に、日々刻々と変わる国際情勢のなかにあっても、日台の絆が未来へ向けてます
ます強くなっていくという思いを禁じ得ません。

 私は今年一月で九十一歳を迎えました。一昨年の十一月に受けた大腸癌手術に続き、昨年七月
には首の動脈にステントを入れました。いよいよ自分に残された時間を意識しなければならなく
なったと感じる次第です。

 この本には、純粋な日本教育を二十二歳まで受けて育った元日本人ともいうべき李登輝の精神世
界をひも解くと同時に、私という人間がいかにして形成されたのか、日本精神や武士道といった日
本が世界に誇るべき素晴らしい財産に対する評価、我が祖国台湾の現状と未来、長らく「片思い」
が続いた日台関係、国家の行く末を左右する指導者の条件や修練など、日頃から考えていることの
集大成と言えるものを盛り込んだつもりです。

 夜ベッドに入っても、朝目覚めても、頭をよぎるのは、これから台湾がどうなっていくのかとい
う思いです。と同時に、日本のこともそれ以上に気懸かりでなりません。幸いにして、一昨年十二
月に再登板した安倍晋三総理によって、日本が長らく迷い込んでいた暗いトンネルに一筋の光明が
差し込んだようにも思います。

 日本と台湾は運命共同体です。日本が息を吹き返せば、必ずや台湾もそれに引っ張られて明るく
なるのです。中国の台頭が言われて久しいですが、アジアのリーダーとして相応しいのは日本をお
いて他にないと私は断言します。日本経済の再生は、中国が持つ市場の大きさや経済に目を奪われ
がちな台湾の人々の関心を日本へ向けさせる絶好の機会とも言えると思います。

 本書は、日本の復活を心から期待する李登輝から日本人へ贈るメッセージです。

 本書の原稿も最終チェックの段階に入った頃、台湾と中国の「サービス貿易協定」発効に反対す
る学生たちが立法院に突入し占拠したというニュースが飛び込んできました。この付記を執筆して
いる時点で占拠は二週間あまりとなっており、どのような結末を迎えるか予断を許しませんが、私
の思うことを述べておきたいと思います。

 思えば二十四年前のちょうどいまと同じ季節、いくら南国台湾とはいえ三月の朝夕は時折ひどく
冷え込むこの時期に、やはり台湾大学を中心とする学生たちが台北市内の中正紀念堂で座り込みや
ハンストを行っていました。

 ことの発端は、何十年も改選されない国民大会代表が、その退職に際し、高額の退職金や年金な
どを要求していたことに対する抗議でした。この座り込みが報道されるや、中正紀念堂には学生や
支持者が続々と集まり始め、最終的には六千人を超える規模になったと記憶しています。

 その三年前の一九八七年には戒厳令が解除されていたものの、未だ国民大会には「万年議員」が
居座って禄を食み続けていましたが、その根拠となっていたのが、台湾と中国大陸は未だに内戦状
態にあるとして憲法の機能を制限し、国家総動員のために設けられた「動員戡乱時期臨時条款」で
した。

 学生たちは万年国会の解散に加え、動員戡乱時期臨時条款の撤廃、民間からも識者を集めた国是
会議の開催、民主化のタイムテーブルの提示という四大要求を掲げ、政府、つまり総統の任にあっ
た私に突きつけたのです。

 私はと言えば、当時確かに総統の任にありました。とはいえ、それは一九八八年一月に蒋経国総
統が急逝し、憲法の定めにしたがって副総統だった私が昇格したにすぎず、私のことを「ロボット
総統」と見る向きも多かったのです。

 さもありなん、国民党内で派閥もなければ後ろ盾となる元老もいない、軍も情報機関も掌握して
いないのだからそう見られたのも当然でした。

 総統就任後、私は時をおかずに蔣経国路線を継承することを表明しました。蒋経国総統の急逝に
よる党内の動揺を抑え、台湾社会を安定させることが何よりも先決すべき問題だったのです。

 台湾の民主化を推し進めるためには、名実ともに国民大会代表による支持を受け、選挙によって
選ばれた総統にならなければなりません。そこで私は、代理総統の任期が切れる一九九〇年春を視
野に、李元簇副総統候補とともに支持を取り付けるべく、一瞬も気の抜けない選挙戦を戦っていま
した。

 二月、党の臨時中央執行委員全体会議でわれわれが正副総統候補として指名されたものの、翌月
の国民大会で正式決定される前にひっくり返そうとする非主流派勢力によるクーデター工作が白熱
しており、日々予断を許さない状態にありました。

 そして折も折、学生たちによる座り込みが始まったのは、国民大会での総統候補指名を翌日に控
えた三月十六日のことだったのです。

 というのも、それに前後する三月十三日、国民大会は台北市郊外にある陽明山中腹の中山楼で代
表大会を開催し、「動員戡乱時期臨時条款修正案(延長案)」を満場一致で可決したのです。一九
四八年の発布以来、時限立法的性格を有する臨時条款の期限延長を毎年自分たちの手で行うという
悪例がまかり通っていたのです。

 しかし、民主化への胎動が聞こえ始めたこの年、高待遇の特権を手放そうとしない国民大会代表
に抗議する学生たちが中正紀念堂で座り込みを始め、人民の怒りを表明したのも当然の帰結でした。

 学生たちの声は燎原の火のごとく広がり、民主化を望む声は時間が経つごとに大きくなっていき
ました。そこで私は学生たちが座り込みを始めた翌日には、テレビを通じて、人民に対し冷静に理
性を持って行動するようにと呼びかけると同時に、政府側も民主改革を加速させることを再度表明
して、その要求に応えようとしたのです。

 日増しに大きくなる人民の声に押されるように、私は十九日に「一カ月以内に国是会議を開催す
る」と表明しました。翌二十日には立法院で与野党が協議し、国是会議開催に加え、「動員戡乱時
期の終結」や「民主化のタイムテーブルの提示」を総統に提言することが決まったのです。

 実際、学生たちの要求が、私自身が推し進めたいことと完全に一致していたのは間違いありませ
ん。二十一日、学生運動によって政局はやや混乱していたものの、国民大会の支持を取り付け、選
挙を勝ち抜いて総統の座に就いた私は、早速学生代表を総統府へ呼び、彼らの声に直に耳を傾けた
のでした。

 実を言うと、学生たちが座り込みをしている中正紀念堂へ私のほうから赴きたかったのですが、
国家安全局から「万全の警備ができず、不測の事態が起きかねない」として強く反対されたので
す。そのため、夜中に車両で中正紀念堂の周囲を一周して学生たちの様子を見て回ったこともあり
ました。

 私が会った学生代表は、記録によると五十三人となっています。彼らも混乱していたのでしょう
か。日中に秘書長を派遣して「代表者は総統府へ来るように」と伝えてあったのですが、彼らが来
たのは夜八時を過ぎていたと記憶しています。

 私は「皆さんの要求はよくわかりました。だから中正紀念堂に集まった学生たちを早く学校に戻
らせ、授業が受けられるようにしなさい。外は寒いから早く家に帰って食事をしなさい」と彼らを
諭したことを覚えています。

 彼らは中正紀念堂へ戻り、協議のすえ翌日早朝には撤退することを発表しました。それを聞いて
私も心底ホッとしました。私の心のなかに民主化を推し進める意欲があったことはもちろんです
が、寒さに震えながら座り込みを続ける学生たちの姿を見ていられず、一日も早くキャンパスや家
族のもとへ帰してやりたいと思っていたからです。

 今年三月十八日、学生による立法院占拠に端を発した「太陽花(ひまわり)学生運動」ですが、
二週間あまり経った現在でも馬英九総統は学生たちの声に耳を傾けようとせず、「サービス貿易協
定がこのまま発効しなければ台湾の信用問題にかかわる。学生たちの立法院占拠というやり方は違
法」などと、本質的な問題から目をそらし、「協定発効ありき」の姿勢を崩していません。

 ここで私は強く言いたい。

 立法院を占拠した学生たちには、学生たちなりの意見があります。彼らだって国のためを思って
行動しているのです。あの場にいる彼らだって国のためを思って行動しているのです。あの場にい
る学生たちのなかに個人の利益のために座り込んでいる者など一人としていません。彼らに何の罪
があるというのでしょうか。馬総統は一刻も早く彼らの話を聞き、少しでも早く学校や家に帰す努
力をするべきです。

 本文でも述べていますが、指導者たる者、常に頭のなかで「国家」と「国民」を意識していなけ
ればなりません。指導者は人民の声にできるかぎり耳を傾け、その苦しみを理解すると同時に、誠
意を持って彼らの要求に具体的に応え、解決の道を探るべきだと私は信じています。馬総統は
「党」や「中国」のことしか考えていないようにも思え、同じ総統の立場にあった者として残念で
ならないのです。

 とはいえ、この十数日の間、学生たちが台湾に対して見せた情熱や理想の追求は明るい希望をも
たらしてくれました。そして三月三十日には、総統府前でサービス貿易協定の密室協議に反対する
デモを行い、台湾の歴史上例をみない五十万人(主催者発表)という人々が総統府前広場を埋めた
のです。

 実はこの日、私も参加したいと思っていたのですが、二人の娘と孫娘に「まだ風邪が完全に治っ
てないでしょう。そのかわり私たちが行くから」と諭される始末でした。

 帰宅した孫娘が興奮気味に「本当にたくさんの人が集まっていて身動きもとれなかった。あんな
にもたくさんの台湾人が立ち上がったのよ」と報告してくれるのを聞きながら、私は学生たちに対
して感謝の念さえ持ち始めていました。なぜなら、民主主義というものは、単に投票の権利を手に
することではなく、人民自ら政治へ参加すると同時に、政府を監督することによって初めて実現さ
れるということを広く知らしめてくれたからです。

 ともあれ、この学生運動はすでに台湾の民主主義の将来と発展に多大なる影響を与えたものと私
は確信しています。人民こそが国家の主人であり、台湾の未来は台湾人によって決せられるものだ
ということを学生や人民たちが実践躬行で示したのです。指導者たる馬総統は問題を正視し、台湾
の発展のため積極的に解決する努力をするべきです。

 この学生運動がどのような結末を迎えるか心配は続きますが、その一方で台湾の民主主義の発展
を全世界に披露する契機ともなったことは間違いありません。そのことを一人の台湾人として何よ
りうれしく、そして誇りに思うのです。

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・2004年 李登輝前総統来日特集(2004年12月27日〜2005年1月2日)
・2007年 李登輝前総統来日特集「奥の細道」探訪の旅(2007年5月30日〜6月10日)
・許世楷駐日代表ご夫妻送別会(2008年6月1日)
・野口健先生講演録「台湾からの再出発」(2010年12月23日)
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