――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港153)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港153)
【知道中国 2271回】                       二一・九・初四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港153)

ここで香港から大きく離れることになるが、モノはついでである。京劇と政治の関係について最近の一例を見ておくことにする。

『中國京劇』という月刊誌がある。中国政府の文化部和旅游部の主管を掲げていると言うことは、この雑誌は京劇界の動向に関する政府当局の見解を示していると考えても間違いないだろう。というわけで趣味と実益を兼ねて定期購読を続けている。

そこで注目したいのが、2018年11月号が特集で取り上げた「四郎探母」である。

この演目は共産党政権成立以前から上演禁止措置を受け、共産党政権下では社会主義道徳に反する「壊戯(劣悪な京劇)」と断罪され自由な上演が許されず、主人公の楊四郎は毛沢東からは「漢奸だろう」とまで否定された人物だ。

「四郎探母」は200余年の歴史を持ち、中国の芝居を代表することから「国劇」と呼ばれ、5000本を超える演目を数える伝統京劇のなかでも屈指の出し物――いわば“京劇十八番”のうちの1本といっても過言ではない。

時代は宋代、北方から国境を侵す異民族(契丹族)に対し、宋朝の干城たらんと立ち上がる楊一族の尽忠報国の奮戦ぶりを綴った古典小説の『楊家将演義』を種本としている。

祖父から父へ、父から孫へ。祖母の?太君を筆頭に一族の女性も武器を手に戦場に赴く。一族が世代を重ねて戦い斃れていったが、楊家の四男(四郎)である楊延輝だけは激戦の末に敵に生け捕りにされてしまった。だが、異民族を統べる蕭太后の王女である鉄鏡公主に見初められ結婚し、「附馬(皇帝の娘婿)」となり、一子を得て幸せな家庭生活を送る。

 15年が過ぎたある日、母親の?太君が一族と共に大軍を率いて国境に迫っていることを風の便りに知る。敵国でおめおめと安穏な生活を送っているばかりか附馬となり果てたがゆえに一族に合わす顔がない。

だが懐かしい母親の膝に縋りたい。かつての妻にも会いたい。兄弟とも話がしたい。苦悶する四郎の胸の内を察した鉄鏡公主は蕭太后の目を盗んで国境関門通過許可証を持ち出し、「これを手に母様をお探(たず)ね下さいな。だけど一夜でお戻りを」と囁きながら、そっと四郎に渡す。

 四郎は通過許可証を手に国境を越え、楊軍の陣屋に辿り着き、?太君をはじめ懐かしの一族との再会の一時を過ごす。

 ハラハラドキドキのシーンもあれば、手に汗握るシーンもある。オペラを基本とする京劇のセオリーに従って、客席を感動の渦に巻き込む歌が続く。涙を誘い、笑いを呼び、やがて大団円へ。

 『中國京劇』(11月号)は10本を超える論文によって『四郎探母』を多角的に論じているが、「中華民族が尊崇する国家観、民族観、文化観、英雄観を体現しているがゆえに、楊家の将軍たちの物語は最も生命力と影響力を持った歴史物語であり、今に至るも京劇の舞台で生き活きと演じられている」とか、「戦乱のなかでこそ募る肉親への情、戦乱がもたらす混乱に対する憂憤の思いといった要素が認められるからこそ、時代を超えて盛んに演じられてきた」と評価する点では各論文は共通している。

であるとするなら、『四郎探母』は中華民族文化の精華、習近平流に表現するならば「中華文化の偉大なる復興」の典型例ともいうことか。

 ここで『四郎探母』が、なぜ上演禁止措置を受けてきたのか。禁演の歴史を改めて簡単に振り返っておきたい。

 『四郎探母』が京劇の舞台に初登場したのはアヘン戦争直後の道光25(1845)年である。以後、多くの名優が演じ、脚本に手が加えられ、また演じ、やがて完成形に近づく。《QED》

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