Justice)の行く末は?
-緑島で医療所を開いた政治迫害犠牲者 蘇友鵬先生の訃報に接して -
龔
昭勲
1950年5月13日に、台湾大学(終戦前は台北帝国大学)付属病院から、4人の医師が国民党政府の公安機関(保密局)の特務に逮捕され、連行された。半年後、「台北市工作委員会」と言う案件の裁判が行われ、前後に逮捕された合計50人の内、14名が死刑、台湾大学病院の医師たち6人の内、3人(第三内科許強部長、外科医郭琇琮先生、熱帯血液研究センター長謝湧鏡主任)が死刑、残りの3人(眼科胡鑫麟部長、皮膚科医胡寶珍先生、耳鼻咽喉科医蘇友鵬先生)は10年懲役で、台湾南東部の緑島へ島流しにされた。その一人、当時、一番若い(25歳)医師だった蘇友鵬先生はついに移行型正義を待ちきれずに、去る9月16日に他界された。正式な告別式は10月7日に行われる予定である。
蘇友鵬先生は、大正15年(1926年)に台南の善化で生まれた。祖父は清国の国家試験(科挙)を受け、秀才の資格を取った。蘇先生は日本教育を受け、小学校時代から頭角を現し、善化公学校から卒業したときに、「宮殿下賞」を受賞した。その後、二位で州立台南第二中学校(現台南一中)へ進学、5年後、台北帝国大学予科理科医類に進学した。昭和20年の春、台北帝大予科を卒業し、帝大の医学部へ入った。しかし、既に戦争状況は芳しくなく、入学してすぐ学徒兵へ入隊、台北近郊の五股に配置された。4ヵ月後終戦を迎え、11月に国立台湾大学に改められた医学院に再編入された。4年後の1949年に卒業し、台湾大学付属病院に就職した。しかし、一年も経たずに逮捕され、1960年5月13日まで、緑島の労働集中キャンプに収監された。
緑島の集中キャンプ(新生訓導処)に拘留されていた間、必要な器材、薬を取り寄せ、仲間の医師たちと小さな病院を立ち上げた。政治犯を初め、監視の兵隊、その家族、及び緑島の住民を対象に診療を行った。少ない器材で手術も行い、この医療所は台湾大学付属病院の緑島分院とまで言われた。本日に至るまで、緑島の歴史上、一番完備な総合病院であった。
蘇先生は釈放された後、運よく台南第二中学校の先輩楊蓮生医師の協力を得て、医学部の先輩三人(李鎮源、蕭道應、及び杜詩棉)が保証人を引き受け、台北鉄道病院で働き始め、耳鼻咽喉科の部長兼副院長として、定年まで勤めた。
定年後の蘇友鵬医師は、自宅でクリニックを営みながら、台湾の人権活動、白色テロ時代の受難者の名誉回復に努力した。台湾社会の移行型正義の実行に力を尽くしたのである。
蘇先生は自分が何のために逮捕され、監禁されたか、皆目判らなかった。唯、逮捕されたときに上着のポケットにあった魯迅著作の「狂人日記」という書籍が有罪判決の唯一の証拠となった。台湾にはその理不尽な時代の悲劇が二度とあってはいけないと唱えていた。つまり、移行型正義だけではなく、世代間正義(Intergeneration
Justice)が如何に重要であるかを台湾社会に向けて、説明し続けていた。
台湾は民主的な選挙で3回の政権交代が行われた。しかし、2016年から発足した蔡英文政権は、移行型正義を優先政策と位置づけはしていたが、これら台湾の白色テロ時代の受難者が欲しがっている過去の真実を知りたい想いが重要視されていないのも事実である。67年前、何故台湾大学付属病院から、これらのエリート医師たちが逮捕されたのか。捕った理由、目的は何か。これらの真実はいつ世間に公表されるでしょうか。政府が機密ファイルの完全公開をしなければ、我々は歴史の真実を知ることができません。迫害を受けた数々の台湾人の名誉を回復することだけではなく、終戦後、台湾社会が面した国民党の数え切れない残虐な暴政について明らかにすることは、台湾の将来を明るくするために必要不可欠です。当事者たちが年ごとに亡くなっていきます。だから、これらの課題は、我々が今、真剣に向き合って、一つ一つ解決しなければなりません。そうしないで、台湾は永遠に正常な国になることが出来るでしょうか。 (2017.10.3)
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台湾の声