【楠木正成の統率力第30回】飯盛城攻略作戦 その6

【楠木正成の統率力第30回】 飯盛城攻略作戦 その6
         

     家村 和幸

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

さて今回は、「飯盛城攻略作戦」の最終回、いよいよ飯盛城を攻略します。

 それでは、本題に入りましょう。

【第30回】 飯盛城攻略作戦 その6

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十二 安鎮国家の法事付諸大将恩賞の事」より)

▽ 楠木の軍法の厳格さにより飯盛城が落ちる

 楠木勢が飯盛城を落とすことなく数日を送っているうち、
ある夜のこと正成の陣所に火災があった。この時にいたって
飯盛城は即時に落ちたのであった。その理由は何かと云え
ば、楠木の軍法の厳格さによるものである。それは次のよう
なものであった。

▽ 楠木軍の禁制八箇条

 一、軍勢の中の誰であろうと、命令なくして行動を開始すること。

 一、戦闘中に命令を待たず、私的な用事を処理すること。

 一、進んだり退いたりする行動が将の太鼓と違っていること。

 一、軍使が戦場に到着して、遅くに帰ること。

 一、将の作戦方針(基本的な考え)に背いて、自分の考えに固執
   すること。ただし、将がその立場において自分の作戦に対す
   る考えを認めたならば、その限りではない。

 一、戦場において、自他の郎従らが主に随わず、雑乱を起こすこと。

 一、戦陣の中にあって兵士どうしで雑談すること。これに関連して、
   主が郎従を離れ、兵士と一緒にいること。

 一、命じられた陣形を取らないこと。

 これらの条項に背いた場合は、謀反の重罪と同じものとして扱う。

▽ 楠木軍の掟六か条

 また、掟(おきて)として次のことがあった。

 一、陣中において、夜昼に限らず、喧嘩口論はいかなる理由があろう
   とも、その一軍(部隊)の中で解決しなければならない。他の
   一軍はたとえ親子であったとしても、自分が介入することは言う
   に及ばず、人をも遣わしてはならない。これに関連して火災につ
   いて、これが発生した場合も、その一軍の中で消火しなければな
   らない。それ以外の軍は、武具を完全に装着したままで、それぞ
   れの陣所にあって、上からの下知を待つこと。

 一、夜討ちがあった場合も、これに同じである。

 一、戦場における喧嘩は、平常時と同じに扱ってはならない。これは
   味方が敗れる発端となるからである。そのため、理非によらず、
   どちらも陰謀の罪と同じものとする。もしもまた、一方が感情を
   抑えて堪えたのであれば、その者にはそれまでの所領の上に半分
   を与えるものとする。仕掛けた側の者については、陰謀の罪と
   同じに扱うこと。

 一、軍陣において、道楽を好み、美酒を愛し、人より前に食糧を失い、
   将の下知を待たずに敵味方の占領する土地を収用あるいは放棄し、
   郷里の民家を強制的に取り立てること。これに関して、軍陣にお
   いて酒に酔うことは、大いに武人の道に反するものである。敵前
   において酒に酔ったならば、どうして物の役に立つであろうか。
   武家に生まれた者は、戦場において苦しいことに堪えねばならな
   い。武家でありながら、こうした苦労を避けるようであれば、
   盗人と同罪とすること。

 一、軍陣において女を召抱えることは、大なる罪禍である。これは
   軍務に対する怠りの発端となり、けしからぬことである。

 一、軍陣における食事は、上下で同じものとしなければならない。
   遊興に来ているのではない。どうして主人であるからといって、
   善を尽くし、美を尽くして、下の者をして苦しめることが許され
   ようか。これは味方が戦に敗れる発端となる。また、礼を破ると
   いう罪でもある。

 これらの条項を全て厳守せよ。けっして怠ってはならない・・・というものである。

 正成は自ら率先してこれらの法に背かぬようにし、家の子・郎従で
ある者でも、少しでもこの掟に背けば、法に定めたとおりに処罰した
のであった。

▽ 正成、軍法に違反した親類を見逃さず

 例えば、この合戦の最中、和田和泉守の弟・小車妻(おくるめの)新三郎
が、手柄のあった者への賞として摂津国尼崎から陣中へ女たちを召し、
自分もこれと遊ぶこと三日に及んだ。正成はこれを聞いて、新三郎の
兄・泉州(和田和泉守)のもとへ使者を遣わして、

 「このような不思議なことがあった。おそらくご存知ではないこと
でしょう。そなたの舎弟ともあろう者が、かくも無法にふるまわれた
ことは、ひとえに正成の運が尽きたという証である。正成の子であっ
たとしても、軍法を破れば罰するものである。まずは、そなたの胸中
(正直な気持ち)をお聞かせいただきたい」

と伝えさせたところ、泉州は大いに驚き、

 「全く異存はございません。私の弟ともあろう者がそのように無法
な行為をして、それを諸人が見聞きしているとは、なんとも恥ずかし
いことでございます。罪科を重くして当然のことと存じます」と申した。

 正成は、「よくぞ仰られた」と云って、新三郎からその領地や財産
を没収したのであった。

▽ 和田、弟を死罪にする

 泉州は重ねて願い出て、

 「私もなまじっか楠木正成の一族として、末座のちりを払う身となって
おります。弟の新三郎もそうでございます。女色にふけって法を忘れる
ような事は、私にとっても面目がございません。楠木殿のお考えと違う
ことは百も承知の上、かわいそうではあるが国のためでございますれば、
死罪といたします」

と申した。正成は涙を流しながら、

 「通常の法であれば、どうしてそこまで厳しくするのかと言いたいと
ころだが、ほんの少しであっても軍法を犯すことは、味方の敗北の発端
であり、国を亡ぼす根元であれば、一人の親類を助けて万人を不幸にさ
せることがあってはならない。ともかくも・・・」

とのことで切らせたのであった。常々は情けがあって、下民を憐れんだ
正成といえども、軍の法を破る者だけは免(ゆる)すことがなかったので
ある。

 この小車妻は正成の妹の子、つまり甥であった。泉州にとっては同じ
腹の弟であった。泉州は楠木の一陣をになう大名である。そうでありな
がら、ここまで重く罰したのであるから、下の者はあえて法を犯すこと
がなかった。

▽ 掟を厳守して陣中の火災に対処

 こうしたことから今、夜中に火災があったので、志貴の率いる一陣だ
けで火を消した。それ以外の諸陣は、武具を装着して下知を待っている
ところに、楠木が「ただちに出撃せよ」との命令を下したので、恩地が
先陣となり、常のごとく二陣、三陣がそれに続いて出陣したのであった。
下々の者たちは、

 「あれは失火などではない。楠殿が謀で陣所に火をかけられたのだ」

などと少々知恵のある者は申していたという。

 おりしも風が強くて正成の陣に火が移ったけれども、兵たちはちっとも
動じない。正成が

 「我が陣の兵1個組を遣わして飛び火を消火する。焼けた雑具(ぞうぐ)
があれば正成がその費用を支払うぞ。皆、落ち着いていて感心だ、感心だ」

と命令した。

▽ 火事に誘われた城兵、総出撃

 城ではしばらくの間、「謀られるな・・・」とのことで見物していたの
であったが、正成の陣に火があがったのを見て、

 「これは謀ではない。さあ打って出るぞ」

と云って、我も我もと走っていく。大将は「これは何事だ」と尋ねたけれ
ども、我も我もと行くうちに、大将もこれらを統制しなければと城を出た
ので、城に留まった軍勢は、

 「大将が出撃されたのであれば」

と、一人が出、二人が出ていくうちに、1万に少し足りなかった軍勢が、
一人も城に残らずに出たのであった。

▽ 城を出た敵軍勢を追撃し、飯盛城を占領

 陣形も整えず、一騎づつバラバラに出撃した敵は、恩地が1千余騎を
二つに分けて備えているのと遭遇した。矢を一つも放たず、先陣の一軍が
どっと叫んで攻めかかると、正成が本陣から太鼓を打った。これは、
「兵を乱して敵を追え」との合図であった。

 恩地は、この一軍には陣形を乱して追わせ、残るもうひとつの軍は
乱さず、正成の本陣に軍使を向かわせて、「今夜、城を攻め取るべし」
と伝えた。正成は、

 「どのようにでも(恩地)左近太郎殿の思うようにせよ」

と言った。和田・正氏にも、「兵を乱して追え」と言ったので、
4千余騎が兵を乱して大急ぎで追撃した。

 城から出た敵の軍勢は、自分たちがこしらえた城戸・逆木(さかもぎ)に
妨害されて、城へは入れない。恩地は500余騎で、逃げる敵には目もか
けずに城へと突進し、大声で命令して云うには、

 「城戸の外で首を取っても手柄にならないぞ。城中にいる手柄になるよ
うな敵と取っ組みあって討ち取れ。城の外で敵の首を取って、後で忠賞が
ないと云って手当ての者や私を恨むなよ。城に行くまでに返してくる敵が
あれば、討ち捨てにせよ」

 とのことであり、軍使8人がこのことを後から来る味方の軍勢にも伝え
て回った。

 城へ押し寄せてみれば、門さえも開け放って、番する者は一人もいない。
恩地は城に入って、先ず火をかけたのであった。楠木がやがて1万5千余
騎にて城に入った。しかし、城に長く留まることなく、近傍の山に陣を堅
くして取った。

 夜が明けたならば、首4千余りを討ち取って、その日のうちに京都へ
上った。和田泉州・弟の正氏・恩地らについては、残党を捜して討つため
に、飯盛に残し置いたのであった。

▽ 正成の生まれつきの才智

 軍の法というものは、いかにしても厳格なものとしておくべきである。
楠木の軍勢は、軍法と作戦のどちらもしっかり備えていたので、突然に火
災が発生したけれども、戦いに勝ったのである。

 常日頃から法を制定しておくにしても、書物から勉学するにしても、生ま
れつきの才智がなければ、このような時、冷静に「軍勢は出撃せよ」と命令
できるものではない。生まれつきの素晴らしい大将であることがよくわかっ
たと、一門の者も他家の者も、偏見なく楠木正成を褒めたのであった。

(「飯盛城攻略作戦」終り)

(以下次号)

(いえむら・かずゆき)

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● 著者略歴

家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

現在、日本兵法研究会会長。

http://heiho-ken.sakura.ne.jp/

著書に

『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html

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