宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載
家村和幸『兵法の天才 楠木正成を読む』(並木書房)
後醍醐天皇が笠置山に義挙の烽火を挙げた。「鎌倉幕府打倒」を掲げての挙兵に応じたのは日野資朝と日野俊基のふたり。山伏に姿をかえて近畿一帯を歩き、地方の豪族を説き伏せた。
義に参じたのは楠木正成だった。
強大な鎌倉幕府の専横と横暴に誰もが不満を抱きながらも、正面から軍事的挑戦をなそうとする蛮勇の侍は不在だった。その境遇をあえて無名の豪族が名乗りを上げ千早城に挙兵し、大胆で意表を突く兵法を繰り出し鎌倉幕府を弱体化させた。
その英雄の名は言うまでもない。楠木正成である。
楠木正成は元弘元年(1331)九月に、下赤坂に挙兵し「湊川の戦いにおいて四十三歳で戦死する延元元年(1336)五月二十五日までの五年間にわたる『大楠公の戦歴』こそが南北朝動乱の歴史の本体をなしている」
と著者、家村和幸は言う。
楠木正成は「難攻不落の千早城を築きあげた。敵兵を引きつけてから巨石や丸太を転げ落とす、熱湯や糞尿を浴びせる、敵がよじ登った塀ごと谷底に崩れ落ちるなど、数々の奇抜な戦法を駆使して、五十倍の鎌倉幕府群による攻城を七十四余も食い止めた(中略)。天下の形勢は一変した」
この楠木正成の兵法は大江家の第四十一代大江時親が教えた。『孫子』と『戦闘経』の二つを楠木正成に伝授されたが、とりわけ孫子は「必ずしも日本の歴史、文化や風土に根ざした民族性に合致したものではなく、自然と一体感、正直、勤勉、誠実、勇気?協調と和、自己犠牲の精神などのような古来日本人が尊重してきた精神文化を損なう懼れすらある」として楠木正成は『戦闘経』を好んだという。
その華々しき戦闘方法は以上の経緯を経て、日本的独創的戦闘方法が実現された。
『太平記』に書かれた「櫻井の別れ」の名場面は、創作説が根強いといえ、古くからの伝承であり、概要は次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、いちどは都落ちした足利尊氏、九州で武装を立て直し、こんどは怒濤の進撃で山陽道を駆け上がってきた。その足利尊氏の軍勢、じつに十数万。こなた楠木正成の軍勢は僅かに七百。
新田義貞が総大将の朝廷方は兵庫に陣を敷いたが、この程度では足利に叶わないため、尊氏と和睦するか、または都を捨てて一度、比叡山に籠もり、京に足利軍を誘い込んで撃つべきと後醍醐帝に提言するも、聞き入れられず、正成は最後を覚悟して湊川へ旅立つ。また主力の新田軍をすみやかに後醍醐帝のもとへ帰還させる戦術でもあった。
途中、桜井において楠木正成は嫡子・正行を呼び寄せて言った。
「お前は河内へ帰れ。父と共に戦死するより、我が戦死のあと、帝のために身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残っていつの日か必ず朝敵を滅せ」として『七生報国」の重要性を諭した。
形見に後醍醐邸から下賜された菊水紋の短刀を授けた。
それが「櫻井の別れ」の名場面、戦前は国民教科書に必ず書かれ、小学唱歌として歌われた。楠木正行は後年、四条畷に足利軍を迎え華々しく散った。
「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」♪ いつもこの歌を評者(宮崎)が歌いだすと、新宿のスナックで最後まで続けるのは、かの西部遇氏である。
ともかく楠木正成はまさに兵法の天才だったと解説するのが本書である。