メルマガ「はるかなり台湾」の11月11日、13日、17日の3回にわたって掲載された故篠原正巳(し
のはら・まさみ)氏の「台湾人の独立願望─その歴史的背景」です。
篠原氏と言えば、明日の元旦で事件から120年を迎える、明治29年(1896年)1月1日に起こった
芝山巌事件について記した『芝山巌事件の真相』(和鳴会、2001年6月刊)を思い浮かべる方もい
るかもしれません。芝山巌事件についてもっとも詳しい一書かと思います。
篠原氏は、第二次世界大戦後、「世界の植民地は相次いで独立し、それぞれの民族の多年の宿願
は達成された。だが台湾だけがその例外となった」と指摘し、台湾の歴史を詳しくひもときながら
「台湾人自らがその意思を世界に向かって表明すべきである。否定される理由はどこにもない」と
切々と説いた一文が「台湾人の独立願望」です。
メルマガ「はるかなり台湾」では、この一文が発表された時期について「先生が書き残していた
ものを、2004年1月のメルマガ記事で配信」とのみ記すだけで、いつ発表されたのか定かではあり
ません。
しかし、内容からしますと、2001年に刊行された『芝山巌事件の真相』以後、2003年くらいまで
に書かれているようです。いま読んでも内容は新鮮です。逆に、台湾人アイデンティティが過去最
高となり、再び台湾人政権に替る可能性が高まっている今こそ読まれるべきなのかもしれません。
かなりの長文ですが、今年の掉尾を飾る論考としてお届けします。なお、読みやすさを考慮し、
小見出しをつけ、適宜、改行していることをお断りします。
◇ ◇ ◇
篠原正巳(しのはら・まさみ)
大正6年(1917年)、鹿児島県生まれ。1919年、渡台。台中師範学校卒業後、台湾で小学校教員。
終戦により1946年に引揚げ帰国。台湾史と台湾語の研究を続ける。主な著書に『台中・日本時代の
50年』(1980年)、『台湾語雑考─日本漢字音との近似性』(1993年)、『台中・日本統治時代の
記録』(1996年)、『日本人と台湾語』(1999年)、『日本人と台湾語─続台湾語雑考』(1996
年)、『芝山巌事件の真相 ─日台を結ぶ師弟の絆』(2001年)、『アララギの歌人加納小郭家
台湾の歌』(2003年)。平成16年(2004年)11月、逝去。
台湾人の独立願望─その歴史的背景
篠原 正巳
◆重大な岐路に立つ台湾
台湾から引揚げ後のことである。私は台湾育ちを自称しながら、台湾の歴史についてはほとんど
知らないことに気づいた。お粗末な話であるが、遅まきながら日本統治時代だけではなく、台湾全
体の歴史についても調べ始めた。手がかりには、幸いにして台湾の歴史研究者として伊能嘉矩(い
のう・かのり)のような優れた先人もおり、残された文献類も多い。着手してから長い年月が経っ
た。
自身が台湾の歴史や言語に関わりつづけ、また台湾を故郷とする者の思いから、戦後の台湾の推
移にも深い関心をもって見守ってきた。二二八事件や白色テロの恐怖の時代のことも熟知してい
る。書かれたものを読んだり、自分で見たりしたことのほかに、直接に台湾の人々から聞いたこと
も多い。心の痛むことのみが多かった。
しかし1987年の戒厳令解除以後の民主化への動きには、目を見はるものがあった。ついに民主的
な政権を台湾人自身の手で誕生させた。このことの持つ意味は大きい。長い暗黒の時代を知る者に
は、予想もつかない展開であった。
現状は端的にいって、台湾の完全な独立を達成できるのか、それとも中国に併呑統一される道を
たどるのかという重大な岐路に立っている。
私は過去の経歴から台湾に知人は多いが、ほとんどは日本時代を経験した旧世代である。接して
いて痛感するのは、この世代には「自分たちは台湾人であり、中国人ではない」という意識が強固
なことである。いわば台湾人としてのアイデンティティである。私には理解できるし、私も台湾人
を中国人だ、などと思ったことはない。同調していう心情論ではない。私なりの根拠があるが、そ
れは後でのべる。
だが、このアイデンティティも、戦後、渡台した外省人は別にして、本省人の間でも確立されて
いないのが実情のようである。現在では少数となった旧世代と、多くを占める戦後の世代の間に
は、意識に大きな落差を感じる。
若い世代には程度の差はあれ、中国人としての意識をもつ者もいるようである。李登輝氏はその
原因を戦後の教育によるものと指摘しているが、同感である。私は若い世代の人たちとのつきあい
は多くはない。だが、著作を通じて留学生たちとも知りあう機会を得た。
一般的にいって若い世代に共通していえることは、郷土である台湾についての知識に欠けてい
る。まず台湾語を話せない者さえいる。話すことはできても、文言音や白話音の区別もつかない。
深くは知らないのである。台湾の歴史についてもまったく知らない。
しかし、これは若い世代だけの責任とはいえない。教えられていないからである。戦後の教育目
的は、国民党にとって都合のよい中国人を育成することであった。台湾人を中国人として育てるこ
とである。そのために台湾そのものの存在を否定し、台湾人としての意識を抹殺することを図っ
た。「台湾」ということばは、長い間、政治的禁句であった。学校で台湾語の使用を禁じ、台湾の
歴史や地理を学習することも禁止した。台湾語の学習を含め郷土に関する学習が許可されたのは、
民主化が促進されてから後のことである。
教育はしばしば政治的意図のために利用される。戦後の台湾の教育はその典型と思われる。中国
人として中国歴代の王朝と君主名は記憶させても、台湾がいかなる支配者によって統治され、いか
なる政治が行われたかは全く教えない。
そのために、若い世代は台湾に渡ってきた先祖たちの開拓の困難や労苦や、現に住んでいる郷土
の発展の歴史も知らない。揚子江や黄河のことは知っていても、台湾の河川が、流域の開拓やその
後の発展とどう関わってきたか等、郷土に即した地理や歴史については無知である。現実の生活と
は遊離した、中国人としての観念的の学習のみを強制されてきた。どうみても異常な時代に思えた
が、現状もその残像をひきずっているように思う。
これでは若い世代に、郷土の言語や文化を蔑視する風潮が生まれるのも無理はない。ましてや郷
土を愛する心や、台湾人としての意識や自覚など育ちようがない。継承する者を失った言語や文化
は滅亡するほかはないのである。
◆比較するものを持っていた台湾の旧世代
ここで旧世代の台湾人意識について考えみたい。率直にいって、日本統治時代と戦後、それも当
初と現在に至るまでの経過には、いくたの屈折があったように思う。台湾人に台湾人という意識が
はっきりした形で芽生えたのは、日本統治時代になってからだと思う。植民地制度下において、被
支配の立場から支配者である日本人に対立する意識として生まれたものである。学生運動や民衆の
政治運動にもあらわれている。
日本の敗戦によって事態は一変した。私たちは敗戦から引き揚げまでの約半年間は台湾にとど
まっていた。当時のことはよく記憶している。台湾接収のために進駐してきた中国兵を、歓呼して
迎えた台湾人たちの姿が瞼に浮かぶ。日本の支配から開放された、これから自分たちの時代が始ま
るという期待感からである。正義の味方、開放者として歓迎した。この時心情を呉濁流は『アジア
の孤児』の中で率直に吐露している。
だが、そのような期待が無残に裏切られたのを知るのに時間はかからなかった。まず兵士や接収
員たちの横暴、強欲な金品の略奪にはじまった。接収員はその立場を利用し、またこれに便乗する
不逞の分子たちは、争って日本時代の財物を横領して懐にした。官憲は支配者の如く民衆に君臨し
て専横の限りを尽くした。法を無視していたずらに捕らえ、釈放に金を要求した。台湾人は日本の
奴化教育を受けているから、再教育しなければ使うわけにはいかないという理由で、職場の主要な
ポストとから排除した。
台湾人はどんな思いでこれを見ていたのか。屈辱の過去とされる日本の植民地時代には、かつて
目にしたことのない光景である。台湾人の外省人と国府に対する不信と反発心は3万人が殺戮され
た1947年の二二八事件と、1949年の国府台湾移転後の白色テロによる弾圧を契機に、決定なものと
なった。
中国の歴代の王朝は君主の公の観念はない。すべては私である。統治は権力者の恣意による人治
である。蒋介石は国民党という看板を背負ってきたが、国府政権の実体は蒋一族による王朝政治に
ほかならない。当然のように台湾を私物化した。役人は特権をかさに汚職を重ね、公然と賄賂を要
求した。役人の汚職は近代に始まったことではない。習い性と化し体質となった中国古来の伝統で
ある。清国時代の統治を体験した台湾人の先祖たちは、貪官汚吏の実態を巧みに風刺した「三年官
二年満」という俚諺を残している。
台湾人に今なお深い心の傷痕として残っているのは、白色テロ時代の弾圧の記憶である。人権を
無視した冷酷で卑劣な手段により、軍と秘密警察によって組織的な思想弾圧が強行された。恐怖の
暗黒時代である。李登輝氏のいうように夜もおちおち眠れなかった時期である。
このような体験を通じて、旧世代の台湾人は同じ漢民族ではあるが、中国人は台湾人とは異質の
民族であることを思い知らされた。台湾人とは価値観や倫理観、ものの考え方に明らかな相違があ
る。これを民族性の違いとして感じた。同国人であることを峻拒する最大の理由である。
判断に欠かせない要素として、対比する価値や倫理や事象との比較がある。一方的なことのみを
教えられ、比較するものを知らない者はそれだけを信じる。戦後の教育をうけた台湾の世代がそう
である。また、戦後の歴史教育をうけた日本の旧世代も例外ではない。
台湾の旧世代は比較するものを持っていた。その最たるものは法治の記憶と尊法の観念である。
国府政権による人治の無法さを目の当たりにし、法治との違いを知った。
次には、公私の別を弁える「公」の観念である。外省人は職場においても、すべて自己の利益を
中心に考えた。「公」の観念は全く欠如していた。ほかにも、台湾人なら誰もが嫌悪する所業が目
立った。渡台してきた外省人に、質の悪い分子が多かったことも一因であろう。「台湾人は中国人
ではない」という主張には、体験に基づく実感がこもっている。
◆台湾の帰属問題
日本、いや世界でも、台湾の帰属問題をいうときに前提としてまかり通っているのが「台湾は中
国の固有の領土、台湾人は中国人」という通念である。いうまでもなく中国に有利で、台湾には不
利である。日本人のなかには、これを動かし難い事実と信じているものもいよう。
台湾独立運動の先駆者だった王育徳氏が私にいったことがある。「日本人はわれわれの独立志向
を、あたかも九州が日本からの独立を望むようなものだ、と考えている」。これは「台湾は中国の
固有の領土、台湾人は中国人」という考えに共通するものであるが、ともに台湾の独立を不当とす
る観念につながる。
どうしてこのような考えが説得力をもつのか、一言にしていえば、台湾の歴史や台湾人の民族性
を知らず、これに無理解だからである。知らないのも無理はない。日本でも知る者が少ない。 多
くを語る余裕はないが、どうしても次のことだけは知っておいてもらいたい。
たしかに清国は1684年から1895年まで、台湾を領有し統治していた。ことの発端は、無主の島で
あった台湾を一時期オランダが占領した。これを駆逐した明の鄭成功は台湾を反清の拠点にした。
清国は兵を派遣して鄭氏一族を滅ぼす。
鄭氏滅亡後、清国は台湾を放棄するつもりであったが、戦功のあった施琅の諌止によって版図に
加えた。海外の孤島として領土的一体感はなく、領土的価値も認めていなかった。領有したもの
の、移民の中には明の遺臣も多く、台湾が反清の拠点となることを極度に恐れ警戒した。住民を隔
離して封じ込める政策をとった。そのため様々な禁令を定め、渡航を制限した。「広く土を拓きて
民を聚むべからず」というのが統治の基本方針であったから開発の意志はなく、むしろこれを抑制
した。台湾の開拓は移住民の自主的な努力の結果である。
住民を「化外の民」といったことは広く知られている。辺境の異民族と同じ扱いにし、台民と呼
んで差別した。信用していない証拠に、台湾人を政府の兵としては徴用せず、本土から兵を送りこ
んで監視した。台湾には度々叛乱がおきたが、駐屯する兵では鎮圧できず、その都度、万単位の救
援兵を送り込んでいる。統治の実態は植民地的支配と変わらない。統治者と被治者の従属関係は異
民族のそれと変わらず、経済面でも同様である。台湾を対岸の穀倉として豊富な米を供出させ続け
たが、繊維やその他の工業製品はすべて本土から移出した。これもまた植民地支配の構造化と変わ
らない。
清国がたやすく台湾を日本に割譲したのも、台湾の重要性を認めていなかったからある。相次ぐ
反乱に手を焼いていた清国は、従わない民の島として台湾をもてあましていた。李鴻章は、日本は
台湾を領有しても、後で後悔するだろうと公言していた。
◆世界に向かって表明すべき台湾人の意思
日本に割譲したことによって中国は台湾の領有権を失っている。国際的にも公認されている客観
的事実である。かつて一時期、中国の領有であったというだけで、中国の固有の領地と断定するべ
きことではない。
1945年敗戦により50年間の日本の統治は終わった。1951年サンフランシスコ条約により、日本は
台湾を放棄した。しかし、どこに返還するかについては条約に明記していないし、明言もしていな
い。条約からみれば、条約締結も当事国である連合国に対してである。
この問題に関する研究には戴天昭氏の大著『台湾戦後後国際政治史』がある。著者はサンフラン
シスコ条約によって、それまで、中華民国が台湾を占していた根拠は失われたと判断している。同
書の結論をいう。「台湾の地位は法理上はあくまでも未定である。住民の自決権を認めた国連憲章
の規定を尊敬するなら、将来、台湾人民の自由公正な投票によって、その地位は決定されるべきも
のである。」
指摘のとおりであるが、最も重要で尊敬すべき住民の意思が、これまで問われたことはない。こ
れに関しては、台湾人自らがその意思を世界に向かって表明すべきである。否定される理由はどこ
にもない。
台湾は中国固有領土というが、かような国際法専門家の意見がある。詳細を読むかぎり、法理上
の不備はないように思う。
条約の当事国である各国が、自国の政治的理由でこれを認めようとせず、あえてこの問題を避け
て成り行きに任せているだけである。台湾の地位は、日本の九州にたとえて論じるような単純な性
質のものでない。
また「台湾人は中国人」、あたかも「九州人は日本人」というように、これを当然とするいいか
たである。理由は同じ姓を名乗り、同じ言語を話し、同じような生活習慣をもち、共通する文化が
ある。何よりもほとんどが福建省や広東省の出身ということだろう。
では、次のケースはどうなのか。これとまったく同じような条件にあてはまるのが、シンガポ−
ルの中国系住民であった。彼らもまたほとんどが、福建省か広東省の出身である。海外、特に南方
の移民には福建省と広東省の出身者が多い。私はシンガポール行ったとき、台湾語で話したが通じ
た。同じ福建南方語(閩南語)である。また従来、生活習慣を守っていることも変わらない。だが
彼らは「自分たちは漢民族ではあるが、中国人ではない。シンガポール人だ」という。
当の台湾人も「自分たちは中国人ではない。台湾人だ」といっている。同じことではないか。こ
の現実を否定すれば、オーストラリア人も、カナダ人も存在しないことになる。
台湾人の出身地が福建や広東だという形式的な理由だけで、現在の福建省や広東省の住民と同じ
ような中国人だといえるのか。
中国系のシンガポール人に過去の歴史があるように、台湾人にも台湾に入植以来、四世紀に近い
歴史を有している。台湾人の民族性や民族感情は、この歴史と風土の中で培われ形成されたもので
ある。それをここで確認したい。
◆台湾人には台湾こそが故郷
清国統治時代には厳しい渡航制限令が布かれていたにもかかわらず、台湾移住を希望するものは
後をたたなかった。福建省や広東省の移住民は、相次ぐ戦乱と慢性的な飢饉から逃れるために、新
天地を求め自らの意志により、航海の危険をおかして台湾に渡ってきた。艱難辛苦の末に開拓した
土地が、すなわち郷土となった。新たな郷土に墓を築き墳墓の地とした。渡航の禁令が解除された
後には、資産家の中には対岸と往来した者もいたが、大多数の庶民は二度と大陸の土を踏んではい
ない。
航海の制限が厳しかった時代には自由に往来はできなかったし、無理をして帰っても再度渡台は
できなかった。移住民一世には本土の記憶があっても、世代を経るごとに大陸との縁絶たれ、心理
的な隔たり大きくなった。大陸を祖国や郷土とする観念は失われていったのである。台湾人には台
湾こそが故郷であり、現実の母国である。
作られた史書や記録の類より、伝承されたことばの中に民の声や、ことの真実を見いだすことが
ある。台湾人が古くから中国を何と呼んでいたか。台湾語では「唐山」という。文言音ではトンサ
ン[tong-san]と読むが、白話音(口語音)でトゥンソア「tug-soa」という。
驚くことに日本語と変わらない。日本では昔、中国を唐の国といった。王朝名の唐ではない。中
国の代名詞である。また唐は転じて異国の意に用いられた。台湾語のひびきにも似たものがある。
唐山とは、祖国や故郷として叫ぶことばではない。
それは、次のことばにも表れている。中国人のことを唐山人(トゥンソアラン.tug-soa-lang)
または、唐山客(トウンソアケェ・tug-soa-keh)という。客とは客人であるが外来者、よそ者の
ことである。仲間にたいして使う言葉ではない。
次のことばを聞けば意外に思う者が多かろう。中国人を唐山●(トゥンソアゴン・tug-soa-
gon)といった。ゴンとは馬鹿、愚か者の意味である。日本時代には日本人の子供たちも、悪口に
ゴンゴンとかゴタウ(●頭)という言葉を使っていた。
台湾人は中国人を指して唐山の愚か者といっていたのである。『台日大辞典』にはゴンに●をあ
てている。慣用されていた漢字であろう。贛は福建省の隣省、江西省の別名であるが、贛は愚かな
意にも使われた。●とは愚かな心を持つ者の意であろう。台湾人は唐山に支配され、唐山人の役人
や兵士が駐留していた。また商いに渡台してくる唐山人もいたが、すべて心を許せる相手ではなく
親愛感ももてなかった。台湾人は唐山に統治されていたが、心から服従していたのではない。唐山
●ということばに、台湾人が本土人に対して抱いていた感情と本音を知ることができる。
●=敢の下に心
◆清国人とは異なる台湾人の特性を見抜いた伊澤修二
日本には、現在の台湾人の外省人にたいする敵愾心を、二二八事件による怨念や憎悪によるもの
とする見方がある。否定はしないが、すべてではない。
事件は、台湾人の中に歴史的に潜在する意識を覚醒させる契機となった。現在の「台湾人は中国
人ではない」という主張はその確認とみるべきである。戦後にわかに生まれた民族感情ではない。
かような台湾人の民族性ともいうべきものは、すでに一世紀も前に外国人によって観察されてい
る。ほかならぬ日本人である。伊澤修二は台湾教育の創設者であるが、教育を開始するにあたり細
かく台湾人を観察している。伊澤は中国語を学び清国の事情にも通じていたが、清国人とは異なる
台湾人の特性を認めている。台湾人を清国人としては見ていない。詳細は拙稿『芝山厳事件の真
相』にのべた。
台湾民主国軍の挙兵により、鎮圧のために派遣された日本の軍人たちも同様に観察している。干
戈を交えた感想として、台湾の民兵は大陸遼東の兵とは明らかに違い、死を恐れずに勇敢なことは
日本兵のようだといった。本土からきた正規兵より、手ごわい民兵に手を焼いた。このことは参謀
本部で編纂した『日清戦史』に記してある。
現在、台湾人は中国人ではないという主張に、こうした精神面だけではなく、人種的にも同一で
はないという理由があげられている。詳細なデーターは承知していないが、高雄医学院の研究によ
ると。台湾人には中国人に比較していて南方系の原住民に近い遺伝子をもっているという。原住民
の混血を指しているが、根拠のないことではない。
◆他の民族に許されることが、なぜ台湾人には許されないのか
清国が移民の渡航について厳しい制限を加えたこと先に述べた。禁令を定めたのは1684(康熙
23)年であるが、1760(乾隆25)年にこれを解除するまで77年間、8度にわたり朝令暮改を繰り返
した。基本的に女性の渡航を禁じ、家族の招致も認めなかった。必然に極端な女性欠乏現象が生
じ、移住民の男性は原住民の女性と結婚するものが増えた。
政府は通婚を禁じたが、これを止めることはできなかった。台湾開拓初期のことであるが、私は
中部地方の地方史をまとめたとき、これについて「両民族の混血はわれわれの想像を越えるものが
ある」と書いた(『台中〜日本統治時代の記録』1996年)。前から強く感じていたことである。
現在の台湾では原住民を台湾人の範疇にいれて、本省人と差別してはいない。移住民と原住民と
の混血、これも台湾の歴史的所産である。私の親しい知人も、自分の中には高砂族の血がまじって
いるだろう、といった。旧世代の「台湾人は中国人ではない」という主張は、私には意識というよ
り確信に思える。
「台湾は中国固有の領土」といえないように、「台湾人は中国人」などと安易にいうべきではな
いことを、理解すべきである。
戦後、世界の植民地は相次いで独立し、それぞれの民族の多年の宿願は達成された。だが台湾
だけがその例外となった。
国民党による占領は本国への復帰とみなされ、これを喜ぶべきこととして光復と呼んだ。それが
台湾の植民地からの開放とされた。 だが真実は、過去の植民地状態の継続にすぎないことは、台
湾の歴史に照らせば明らかである。
まず台湾はオランダとスペイン(北部の一部)の植民地となった。これに次ぐ漢民族の鄭氏政権
も、台湾を反清の拠点とするための、短命な腰掛け政権に過ぎなかった。多くの者がまっとうな時
代だと錯覚している清国統治も、これまで述べたように実態は植民地支配にかわらない。代わって
名実ともに異民族の日本の植民地となった。日本の支配を脱したあとの国民党政権も、多くをいう
までもない外来政権である。
過去の植民地状態から真に開放されるには、開拓の主人公である台湾人自らの政権をうち建てる
ほかはない。台湾の植民地開放はまだ終わってはいない。今ようやくその第一歩を踏み出した。
他の民族に許されることが、なぜ台湾人には許されないのか、さまざまな制約を負わされている
宿命的な現実を、台湾人なるがゆえの悲哀といった者もいる。
これについて司馬遼太郎の『台湾紀行』に興味深い指摘がある。同著によると、世界の人々の人
権を守るMRGという組織の本部が、ロンドンにある。ここから出版された本によると、「台湾
人」は、少数民族の項にはいっているという。二千万を越える人口と、大きな経済力と、高い文化
をもつ台湾人を少数民族として扱っているのは、妥当ではないかもしれない。だがMRGという組
織は、現実にその集団が他の集団によって加虐されているかどうかを、判定の基準にしている。戦
後の中華民国体制における戒厳令下の台湾人の被虐の実態は少数民族の受難と変わらないと判断さ
れたのである。
司馬氏は「台湾人が台湾人であるために持たされている共通の課題をすっきりと集約するとすれ
ば、『世界の少数民族を知る辞典』のように、少数民族として分類するのがもっとも的確かもしれ
ない」という。司馬氏は台湾に注いでいた視線は人類愛という高い視点からのものである。司馬氏
ならずとも、純粋に人道的な観点に立てば、台湾人の要求を不当とするものはいないはずである。
◆地名にみる蒋王朝の台湾私物化
余談となるが、戦後の台湾の地名もこれまでのべたことと無縁ではない。当然なことながら、戦
後に日本時代の市街地の町名はすべて決められた。現在の市街地の地番は、道路を中心に決められ
ている。道路の名称を見ると中には、南京、重慶、長春、長安、長江など大陸の名称や、民権、民
族、辛亥(革命)など三民主義や国民党にちなんだもの、また中山、中正などの個人の号などがつ
かわれている。戦後、にわかに中国一色に塗り変えられ、中華民国という名のミニ中国が出現し
た。雨農、雨声など、悪名高い蒋介石の寵臣の号名もある。台湾が蒋王朝に私物化された印象は拭
えない。
同時に、台湾の歴史や伝統を表す名は姿を消した。このような名称は大陸を追われた者の郷愁を
癒しても、台湾人が郷土の地名として親しみをもち、心の拠りどころとすることができるのだろう
か。私には新生台湾を象徴する名称にふさわしいとは思えなかった。余計なことだ、といわれれば
それまでであるが、かつて台湾を故郷としたものの偽らざる感想である。