今から27年前の平成元年の暮れ、台北萬華(まんか)市場のおでん屋で、仲良くなった台湾人の
「欧吉桑(おじさん)」たちと一杯やりながら、日本語で語り合った内容を、うろ覚えですが再現
します。
欧吉桑「我等の時代終わったネ。陛下亡くなられた。ひばりちゃんも裕次郎も死んだネ…」
私「おじさん、陛下は分かるけど、ひばりも裕次郎も戦後の人だよ、関係ないでしょ」
別の欧吉桑「キサマ分かってない。日本負けた、日本人帰った、でも台湾人ずっとラジオ聴いて
た、内地の、日本の歌。だからひばりちゃん、裕次郎、オレたちの歌ネ…」
“俺はこういう人たちの存在を知らなかった”……感動と申し訳なさ、その時の気持ちが、今も
懐かしく涙ぐんで思い出されます。
“共産党は中国古来の文化を破壊し、今また自分たちと同じ学生を弾圧(天安門事件)した。あ
んなところで学べるか。俺は中国文化も中国語も、学ぶ先は「自由中国」の中華民国だ”。
そう妙に勇んで平成元(1989)年夏、大学の単位交換ができる国立台湾師範大学国語中心(北京
語センター)に留学した私でした。意中に「台湾」が欠落していた私でした。
授業は分かりやすく、先生方も歴史文化に教養ある方々が多く、古き中国をダイジェストで学ぶ
気分でした。今や忘れかけの北京語ですが、会話すると「あなたの国語は正確(標準)だ」と言わ
れます。先生方には本当に感謝しています。
しかし外に出て台北の下町に行くと、そこは台湾訛の強い北京語(台湾国語)と、北京語とは
まったく異なる台湾語(福●語)が飛び交う世界。そして高齢者からは日本語で喋りかけられる。
こちらが北京語で返すと「ワタシ北京語シラナイ」と返され、その後は日本語で会話が弾むので
す。●=人偏に老(ホーロー)
ああ、あれほど「俺は中国について学ぶぞ!」と勇んできた私が、いつしか辿り着いたのは、冒
頭に紹介した、萬華市場の「関東煮(かんとうだき)」の看板を掲げたおでん屋でした。熱燗恋し
さに何回も通って仲良くなった欧吉桑たち。「日本時代は厳しかったが、泥棒いなかった。シナ人
来てダメになった。イヌ去ってブタが来た」という、あのお決まりの話も聞きました。酔っぱらっ
てくると、軍歌を唄い「キサマなぜシナ人の言葉習うか、バカヤロ」。
爺さんや伯父さんと過ごしたような懐かしい思い出です。あの欧吉桑たち、多くは鬼籍に入られ
たでしょう。日本の大学では絶対に習わない生の声を伝えてくれた、私の先生たちです。
留学して7か月後、3月学運(野百合運動)が発生。起きる理由はすでによく理解できるように
なっていた私でした。大陸由来の巨大な虚構の体制を清算せよ、万年議員は辞めろ、という学生の
要求はもっともだと、外省人系教授がほとんどの師範大国語中心においてさえ、多くの先生方はそ
う仰っていました。
当時、私は日本の雑誌記者の手伝いで中正紀念堂広場へ。3月18日の民進党と学生の大集会を壇
上から撮った日本の学生は俺一人、と自負しています。数日後、学生代表と直に会い事態を解決に
導き、その後、学生と民衆の力をテコに台湾の民主化へ道を切り拓かれた李登輝総統は、ずっと私
の最も尊敬する政治家です。
これまで市議、市長と地方政治に身を置き多忙な毎日でしたが、様々なことを学んだ台湾、そし
て「台湾」を学べた台湾、を忘れたことはなく、いつか日台友好のためお役に立ちたいと思ってい
ました。今般、日本李登輝友の会理事のお役を拝命し大変光栄に存じます。
萬華のおでん屋のあの欧吉桑たちの、日本への切ない思いを忘れない……。
将来、日本と台湾が正常な国と国との関係になり、東アジアの平和と安定、民主主義と自由な世
界を支えるパートナーとして永遠に共栄できるよう願い、微力ながら尽くして参ります。