日本経済新聞が2月28日から3月3日まで4回にわたって連載した、中村裕、龍元秀明両記者による記事「台湾、知られざる素顔」について、台湾側の怒りは収まらないようだ。
以前にも書いたように、この記事は日本の読者が台湾の「知られざる素顔」を理解できるような公平な記事ではない。中国バイアスが強い、いわゆる「与太記事」なのだから、無理もないことだ。
日経が3月7日に掲載した「お知らせ」にしても、お詫びでもない、反省でもない、単なる釈明だったから、邱国正・国防部長は「日経の記者が書いたものを同社が責任を取らないとするのはいかがなものか」とコメントしている。怒りが長引くのは当然と言えば当然のことだ。
また、「デタラメだ」と日経記事を非難していた国防部長をつとめたこともある馮世寛・国軍退除役官兵輔導委員会主任委員は、3月13日の記者会見で「日経新聞の誤報から現在まで、国軍はさまざまなトラブルを抱えていると指摘。これらは全て社会と軍人の間に不平等が生じるよう仕組まれているとの考えを示しました」(台湾国際放送)と報じられた。
つまり、日経は台湾の軍人と国民との信頼関係を失わせようとした意図的な「誤報」だったと述べたそうで、怒りが収まっていないことを伝えている
台湾ではこの日経記事問題が起こってから「退役軍人が、中華民国初の軍事学校、中華民国陸軍軍官学校(別名・黄埔軍官学校)の卒業生らに対し、中国大陸へ赴き開校99周年イベントに参加するよう要求」(台湾国際放送)するという問題も出てきている。ごく最近のことだ。
李登輝氏が総統の任にあった時、教育改革や国軍改革を推し進めてきたが、国民党の党軍だった中華民国国軍の台湾軍化を推進してきたものの、国軍改革は任期中に果たせなかったと書き残している。
現在の蔡英文総統も頻繁に軍関係訪問を繰り返して軍改革を進めてきており、日経の記事も「この1年間で30回近く軍の現場に足を運んだ。寄り添う姿勢をアピールした」と伝えていた。しかし、続けて「『軍は終始、中国に強硬な蔡の改革案に抵抗し続けた』(専門家)。蔡は軍を掌握できていない」と書き、蔡総統の軍改革に批判的な匿名「専門家」の声に同調するような記事に仕立て上げている。
翻訳通訳者でジャーナリストの高橋正成(たかはし・まさしげ)氏は、日経記事が巻き起こした台湾側の動向を整理しつつ、3月3日に劉世芳・立法委員(民進党)が立法院の外交国防委員会において「過去5年以内に退役した軍人らが台湾地区および大陸地区人民関係条例及び国家安全法の規定に違反していないか、国防機密の漏洩がないかを調べるよう臨時提議をした」ことを伝えている。下記に紹介したい。 波紋を広げた日経記事問題はまだまだ尾を引きそうな模様だ。日本経済新聞は状況の展開次第で、記事を撤回して謝罪を要求される事態に追い込まれることも予想される。
—————————————————————————————–�”日経報道��ぢで内部を牽制する台湾政治家のしたたか台湾軍がはらむ問題の解決を図れるか高橋 正成 : ジャーナリスト【東洋経済オンライン:2023年3月15日】https://toyokeizai.net/articles/-/659405
日本経済新聞で2023年2月28日に掲載された特集「台湾、知られざる素顔」が、台湾社会で大きな反響を呼んでいる。世論はとくに台湾軍幹部の「約9割」が退役後、中国に渡って軍の情報を提供し、見返りに金銭を授受、腐敗が常態化しているなどと報じた点に反応した。
3月1日になり、国軍退除役官兵輔導委員会(退役軍人協会に相当)の馮世寛主任委員(閣僚)が立法院(国会)外交・国防委員会への出席の前に、「胡説八道(でたらめ)」と公で使用する言葉としては非常に強い口調で報道陣に不満を表した。その後、台湾総統府が検証を呼びかける。3日には、謝長廷駐日代表が深い遺憾の意を表明する文章を日経に送付したことを明らかにした。
一方、日経は3月7日の朝刊で、特集記事は取材対象者の見解や意見を紹介したもので同社の意見ではない。しかしながら社会の混乱を招いたことは遺憾、公平性に配慮した報道に努めるとする「お知らせ」を掲載した。
これを受けて台湾外交部(外務省に相当)は同紙の「お知らせ」を前向きに捉え、日台関係がこれ以上悪化しないよう、幕引きを図ろうとした。一方、邱国正国防部長(国防相)は依然として納得いかない様子であり、記者らの前で、日経の記者が書いたものを同社が責任を取らないとするのはいかがなものかとコメントしている。
◆「さもありなん」という反応も
台湾軍内では、上官をプライベートでは何十年も「先輩」と呼び続けるなど、上下関係が退役後も続く文化がある。現在の国防部長も退役軍人の先輩がおり、先輩が侮辱されたのだから身を挺して守らなければならない。彼らにとって日経報道への反応はごく当たり前のことなのだろう。
台湾にとってアメリカに次ぐ重要な隣国で、親密度では他を圧倒する日本との関係を一日でも早く良好な形に戻したい外交部。それに対し、軍人としての名誉と国家への忠誠を踏みにじられた国防部との間でギャップが生じている。
しかし外国の、しかも友好国・日本のメディア報道で憤りを感じた人々がいた一方、さもありなんと感じた人々もいたのも事実だ。
米中対立が激化する中、台湾の戦略的地位がかつてないほど高まっている。にもかかわらず、アメリカはなぜ最新鋭とまでは行かなくとも日本や韓国と同等の武器を台湾に提供しないのか。
「9割」はあり得ないまでも、これまで繰り返された退役軍人らによる軍事機密の中国への漏洩が、アメリカの先端兵器提供を躊躇させていると推察されるのだ。
歴史的に見ても、中華民国がまだ中国で政権を担っていた頃から中国共産党側に情報を渡したり、寝返ったりした軍人はいる。そして、国共内戦で敗れて台湾に渡った後、とくに警戒していたのがこういった裏切り者だった。
時に当局はスパイのレッテルを貼って無実の人々を捕らえるなど、不必要なまでの取り締まりは今日の台湾社会に深い傷痕を残した。この時代の台湾では、「防諜」という言葉は街のそこかしこで聞かれるものだった。
現在の台湾は、民主化によってさまざまな考えを許容する社会になっている。政治をはじめとするさまざまな事柄を台湾本意で考える人々が多くいる一方、中国との関係こそが最も重要と考えるいわゆる親中派の人々も依然として存在する。中国はそういった人々を巧みに利用し、台湾内のさまざまな情報を入手。あわよくばアメリカに通じる軍事機密をも手に入れようとしているのだった。
◆台湾軍の機密漏洩事件
2010年以降の主な事件では、予備役司令部中佐の2人が現役軍人らに贈賄などの方法で諜報員の写真、年齢などの資料を入手し、中国に渡していたことがあった。
また、国防部参謀本部電訊発展室(通信傍受を主要任務とする情報機関)の退役中佐が中国に複数回渡航し、台湾の国防白書と空軍パイロットの写真を渡していた事件も発生した。
さらに過去最大級と言われた軍事機密漏洩事件では、中国側の元軍人が数年にわたって台湾の退役少将ら8人に接触し、台湾の主力戦闘機の1つであるミラージュ2000の軍事機密を探っていたという。
近年でも依然として類似の事件は発生しており、例えば前立法委員(国会議員)が中国側から親中派退役将校を紹介するよう依頼され、適当な人物を探っていたというのもある。
日経の「9割」という表現は明らかにおかしい。しかし相次ぐ事件の発生から、米中対立の最前線である台湾が、実は関係者が情報漏洩を憂慮する状況にあることがうかがえるのだ。
もっともこの問題の根深さを熟知し、解決しようと計画しているのも台湾人自身であった。
日経報道で軍関係者や世論がショックを受けていた2023年3月3日に、民主進歩党(民進党)所属の劉世芳立法委員が立法院外交国防委員会で、報道をむしろ利用するような動きを見せたのである。
国軍退除役官兵輔導委員会は国防部や大陸委員会(中国との交流窓口機関)、法務部(法務省に相当)など関連機関と連携し、過去5年以内に退役した軍人らが台湾地区および大陸地区人民関係条例及び国家安全法の規定に違反していないか、国防機密の漏洩がないかを調べるよう臨時提議をしたのだ。
日経報道は明らかにおかしいが、退役軍人らの潔白を信じているからこそこれを機会に精査して軍の潔白を証明してはどうか、というものだ。外国報道を利用して巧妙な一手を打ったのであった。
◆「退役軍人は国賊か」と反発も
劉委員の提議に民進党所属以外の委員からも賛同を得たが、中国国民党(以下、国民党)籍の委員らは軍人の忠誠を疑うような行動は士気低下を招くおそれがあるとして反対した。
元陸軍中将で国民党籍の呉思懐委員は、「自分たち退役軍人は国賊なのか」と問いただし、さらには日本との交流を停止すべきだと主張したという。
呉委員は国民党内を超えて軍部にも影響力を有する親中派政治家で、これまでもアメリカの台湾支援をたびたび皮肉り、中国を擁護するような発言を繰り返している。
現閣僚の馮委員と邱国防部長は蔡英文総統が最も信頼する軍人と言われ、軍内でも人望が厚いと評判である。しかし呉委員からの問いかけに、複雑な心境だったのではないだろうか。
もっとも軍組織の人間関係から生じた機密漏洩事件は、日本国内でも発生している。
2022年12月、防衛省は高度な情報保全が求められる「特定秘密」が含まれる情報を海上自衛隊OBに漏らしたとして、1等海佐を同月26日付で懲戒免職処分とし、特定秘密保護法違反などの疑いで書類送検したと発表した(後、不起訴)。事件構造が台湾で発生したものとよく似ている。
日経報道が台湾に与えた影響は単に国民感情の面だけにとどまらない。毒を以て毒を制すがごとく、長年台湾軍が抱えていた問題を間接的にも揺り動かしたかもしれないのだ。
今後、台湾人意識を有する大多数の有権者が、次回の大統領選挙でどのような判断を下すのか。動向を注視していきたい。
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