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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(33)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1732回】                       一八・五・仲七

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(33)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「物質は人の思想を規定し、そして物質的要求には際限がない。権力を持つ人の一部は自らの生活向上のため、ほとんど無自覚に不正に染まっていった」わけだから、昨日まで「山中にこもっていた農民ゲリラの指導者」、つまり共産党政権幹部の多くには、毛沢東が唱えた「為人民服務」なんぞは全く以て無意味となる。考えるに、あの「人民」という漢字2文字は「オレ様」と読み替えるべきだろう。「山中にこもっていた農民ゲリラの指導者」である「人民(おれ)」のために国民は「服務」せよ、というわけだ。このように「為人民服務」を解釈するなら、毛沢東が国民に「為人民服務」を求めた底意(下心?)が解ろうというものだ。

にもかかわらず日本人は毛沢東の掲げる「人民」を、上は毛沢東から下は1人1人の国民にまで超拡大解釈して得々と理解(誤解、曲解、はたまた忖度)してしまった。かくて新中国では毛沢東の“有難い教導”によって誰もが私心を捨て公のために働く、いわば滅私奉公を第一とするように「翻身(うまれかわ)」った。かくて史上空前の「道義国家」が誕生したなどと信じ込んでしまう。全く以てオメデタイ限りだ。

中国における「官場〔官界〕の弊習」という伝統文化について話し始めたら際限がないのでそろそろ切り上げるが、やはり内藤が指摘するように「とうていこの数百年来あるいは数千年来の積弊を一掃するということは」共産党独裁政権であっても、いや共産党独裁政権であればこそ不可能ということになる。かりに習近平の唱える反腐敗・不正が隅々にまで徹底して行われ「数百年来あるいは数千年来の積弊を一掃する」ことができたなら、まさに「中国の夢」が実現することになろうが、正直な話、それが地上から一掃されてしまったら、中国は中国でなくなってしまうに違いない。

内藤は「自治団体と官吏」に論点を移した。

「支那では隋・唐以来人民の自治は存在しておるが、官吏は自治の範囲に立ち入らずに、ただ文書の上で執り行うところの職務だけを行なって」きた。制度的には「何人でもその生まれた地方において官吏となることを許されない。必ず自分の生まれた以外の地方で官吏をしなければならぬということになっておる」。つまり中央から派遣される官吏は所管地方を渡り歩くのである。そこで「渡り者の官吏の常として、その任期の間だけ首尾よく勤めて、租税を滞りなく納め、あるいは盗賊も出ないというようなことで済めばよ」く、かつ「首尾よく自分の懐を肥やせばそれで済むということであっ」た。極論するなら、管轄地域の住民が飢え死にしようが災害に巻き込まれて死のうが、どうなろうが知ったことではなかった。「為人民服務」、つまり「人民(オレ様)」さえよければいいのだ。

かくして「地方の人民というものは全く官の保護を受けるという考えは無くなってしまった」。「どちらかと云えば人民が皆県よりも以下なる屯とか堡とか、小さい区域において自治をして、官の力を借らないのである」。ここでいう「県」までが中央から見た最末端の行政単位で、「屯とか堡」に加え「荘」などで一括りにされる単位は中央政府による地方行政の単位とは見做されないもので、日本でいうなら「大字」とか「小字」に当たる集落とでも考えると判りやすいだろう。

時に「盗賊などが出る時は、官吏は自分の行政区さえ侵されなければ差し支えないというので、成るべく隣の行政区にこれを逐いやるようにする」。そこで隣の行政区の官吏も同じように「成るべく隣の行政区にこれを逐いやるようにする」。とどのつまりは「責任の譲り合いで」、その間に盗賊は雪だるま式に巨大化し、ついには掃討できなくなり、明末にみられたように王朝の屋台骨を揺るがしてしまう。官は民を見殺しにするものなのだ。《QED》

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