2015.8.3産経新聞
櫻井よしこ
着々とアジアインフラ投資銀行(AIIB)を進める中国とは対照的に、日米など12カ国は環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉の合意を今回も達成できなかった。
決定に時間がかかる民主主義陣営はいま、米国の強いリーダーシップを失い、本来の力を発揮し得ていない。米国の消極性を前に、アジア諸国が求めているのは日本の指導力である。米中のせめぎ合い、中国の世界戦略の本質を明確に把握して、世界が必要とする日本の力を発揮することが、安倍晋三政権の歴史的使命である。
9月3日、習近平国家主席は大閲兵式に臨み、抗日戦争の意義と中国共産党政権の権威を強調するはずだ。その中国がいま日本に対して熱心な接近を試みている。安倍首相を手招きしつつも、歴史の捏造(ねつぞう)から領土領海への侵犯まで日本への挑戦をやめない。
個々の事案にとらわれることなく、全体像を見渡せば、中国の意図は明白である。習主席は「偉大なる中華民族の復興」を掲げるが、相手と戦うよりも、詭道(きどう)を旨とし、相手の脅威を無効化することによって戦わずに夢の実現を達成するのが賢明な方法だと孫子は教えている。具体的には中国の支配権を確立し日米両国に、中国の力と威光を受け入れざるを得ないと納得させることを目指している。
その意味で、中国が東シナ海に新たに建造した12基もの海洋プラットホームを経済面だけから分析するのは誤りであろう。
国家基本問題研究所副理事長、田久保忠衛氏は、これら海洋構築物が軍事転用されれば日本にとってのキューバ危機になると喝破した。
中国はエネルギー調達先の多様化において、日本に先行しており、東シナ海のガスをはじめ、海洋由来のエネルギーが中国のエネルギー供給量全体に占める割合は9%強で大きくない。ガス単独で見れば、2012年実績で中国はLNG(液化天然ガス)3040万トンを11カ国から輸入、内52%はパイプラインでトルクメニスタンから輸入した。他に買い手が存在しないために、完全に中国の買い手市場となるパイプラインによる輸入契約は中露間でも結ばれた。ロシアの大幅譲歩で成立した同契約は、エネルギー需要が伸びる中で、中国が安定した安価なガス輸入の枠組みを作り上げたことを示している。
経済産業省関係者は「こうした中、コストが高く、採算が合うのかどうかもわからない東シナ海ガス田を、なぜ急激に開発するのか。違和感を覚える」と述べた。
東シナ海開発のエネルギー確保の可能性は否定できないが、真の動機は他にもあり得るということだ。経済的発想では解けない疑問は軍事的発想を適用すれば解けてくる。
南シナ海、東シナ海での中国の動き、第1列島線を出た太平洋での彼らの行動、例えば沖ノ鳥島を島と認めず、同島周辺海域を日本の領海および排他的経済水域(EEZ)と認めないことなどを総合的に見るとき、右のいずれの海域にも共通するのが、中国に空域管制能力がない点である。そしていま中国が進めているのが、その管制権の空白域を埋める作業なのである。
東シナ海のプラットホームを軍事転用すれば同海域上空に設定した防空識別圏(ADIZ)は真に機能し始め、自衛隊および米軍の展開は大きな制約を受ける。南シナ海の7つの島の埋め立ては中国による管制の空白圏だった南シナ海中央部およびフィリピンと台湾間のバシー海峡での中国の管制力を強化する。
7月30日、沖縄本島と宮古島間の宮古水道上空を中国人民解放軍の爆撃機など4機が2日連続で堂々と飛行したが、台湾海峡への中国のコントロールが強まれば、日本への影響も計り知れない。
第1列島線を越えた太平洋に目を転じてみよう。中国が沖ノ鳥島を日本の島だと認めないのは、射程3000キロを誇る米軍の巡航ミサイルが北京を襲う可能性への恐れだと専門家は見る。沖ノ鳥島は、北京を起点に半径3000キロの海域のふちにあり、中国は同海域を日米ではなく、自身の支配下に置くことで北京防衛を考えているとみられる。
東シナ海、沖縄・南西諸島、沖ノ鳥島海域を含む西太平洋、南シナ海、バシー海峡、台湾海峡をまたぐ勢力圏を形成すれば、中国は日米両国の生命線であるシーレーンを握ることができる。日本は石油の90%以上を同海域を通って運び、米国の戦略物資の過半も同様である。
東シナ海ガス田問題はこうした全体像の中に置いて考えるべきであり、安保法制の議論にも反映させるべき深刻な問題であろう。
中国を駆り立てるエネルギーは、かつて中国は全てを奪われたという恨みである。彼らは、米国でも欧州でもない中国の価値観に基づいた世界の形成を目指していると思われる。だからこそ、問うべきだ。中国で人々は幸せになっているか、と。7月のわずかひと月で、人権擁護派の弁護士ら200人以上が拘束・逮捕された。チベット、ウイグル、モンゴルの人々は弾圧され、虐殺され続けている。
その中国がいま、安倍晋三首相に靖国神社を参拝しないという意思の伝達を含む3条件付きで訪中を求めている。
価値観を大事にする日本の首相として、中国の現状に目をつぶることになる訪中には慎重でありたい。日本の戦後70年の歩みに自信を持って、中国とよき友邦国であるためにも、日本の価値観の表明にひるんではならない。