年明けに林建良編集長から依頼された際は、「大学のことでも、若者文化のことでも何でも」という、至極ざっくばらんなテーマでしたが、新聞やテレビでは伝わらない、留学生の目から見た台湾の生活の息吹のようなものを伝えられたらと思っています。
早川友久
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【早川台湾レポート】第一回 【台湾の言葉】
早川友久
束の間の冬休みを終え、台北に戻って来たのは2月14日。翌々日からはもう第2学期が始まる。台湾は米国などと同じく9月が新年度の始まり。南国台湾らしく、6月半ばに卒業式を終えると、9月半ばまでは3か月近い夏休み。そのかわり冬休みは1か月もなく、今年は農歴の関係で旧正月が早かったため特に短いという。
法律学院の事務所で今学期の学費を払い、ホッとして自転車に乗ると、杖をついたじいちゃんに「事務所はどこかね?」と尋ねられた。年のころ80歳くらい、達者な中国語を話す。
「事務所」とひとくちに言っても、台湾大学にはそこら中に事務所がある。「どの事務所ですか?」と問い返しても、「とにかく事務所じゃ。一番大きいのはどこじゃ?」
うーむ、わからん。教務組、出納組、住宿組、秘書室、学生事務処・・・いったいどの事務所がこのじいちゃんと関係あるのだろう。仕方がないので、今さっき学費を納めたばかりの事務所へ連れて行って任せてしまおう。
自転車を押しながら、「すいませんねぇ、よくわからなくて。しかも日本からの留学生なもので」。そう言ったとたん、「なんだ、あんた日本人かい」。じいちゃんの口からは私たちと全く変わらない日本語が飛び出してきた。「わしゃ、終戦まで日本教育じゃよ。もうだいぶ忘れてしまったがの・・・。あんた何で台湾で勉強しておるんじゃ?」と日本語での会話はとめどない。しばらく立ち話をしてじいちゃんとは別れたが、日本時代は遠くなりにけりの今でもなお、この台湾には日本語を操る人たちがまだまだたくさん残っている。結局、どの事務所に行きたいかは聞かずじまいで出てきてしまったが(笑)。
台湾で暮らしていると、日本人には想像もつかないほど複雑に入り組んだ言語の存在を感じずにはいられない。実は、私がじいちゃんの中国語を「達者な」と表現したのもここに理由があるのだ。
だいたい70歳以上で、中国語が話せるのは、中国大陸から逃げてきた国民党関係者や兵士、その家族など。つまり、外省人とよばれる人たち。逆に彼らは台湾語が話せない。兵士の中には、着のみ着のままで台湾へ来たとはいえ、引退後は国民党の手厚い保護を受けて(「栄民」と呼ばれる)悠々自適の者も多かったが、昨今では孤独な晩年を迎え、悲惨な生活を送っているものも少なくないという。
それから、仕事や研究など、終戦後に努力して中国語を学んだ台湾人。中には、私が出会ったじいちゃんのように流暢な人もいるが、母語ではないので概して上手ではない。李登輝元総統が現役時代、演説のたびに対立陣営から「李登輝の発音は変だ」と槍玉に挙げられたが、それは日本語・台湾語禁止の国民党政権下、中国語を押しつけられて仕方なく身につけたからだ。
この世代の台湾人では、むしろ中国語はまったくできず、台湾語だけという人のほうが多い。日本語を母語として流暢に操る人がいる一方で、経済的な理由から学校へ通えず、もともと日本語などまったくわからないという人も多い。また、戦後はまったく使わなかったので忘れてしまったという人もいて、70代以上だけを見てもこれだけ複雑なのだ。
私の言語交換の相手は、台大の大学院で日本語を研究中。もともと外国文学科で英語を専攻していた彼女は、「英語はほとんどマスターしたので」と、もう一つ興味があった日本語を始めたという、空恐ろしい学生。彼女の祖母は、台湾語と日本語しかできず、孫である彼女は中国語しかできないため、小さい頃は祖母と会話することができなかったという。このように、家庭で台湾語を教わらなかったため、台湾語ができない若者も徐々に増えている。
若い世代には「台湾語はダサい」「台湾語は家の中で使うもの」という固定観念を持つ人がまだまだ多いという。こうした固定観念は、国民党の台湾語禁止政策と無縁ではない。巧妙なイメージ工作によって、「台湾語は低層階級で使われる言葉」「中国語は洗練された都会的な言葉、台湾語はローカルな言葉」というステレオタイプを植え付けられているように思える。
その一方で、台湾語を主に使った映画『海角七号』が空前の観客動員を記録し、テレビでは連続ドラマ『娘家』が昨年の視聴率ナンバー1を獲得した。後者は、昼のメロドラマ仕立てのドタバタ劇なのだが、全編が台湾語で、舞台となった豚足工場(家族で豚足工場を営んでいるという設定)は、『海角7号』の舞台である恒春への通り道ということから、連日押すな押すなの大盛況だという。
昨年は琉球大学へ交換留学し、日本語の会話にはほとんど不自由しなくなった彼女は、日本語を学んで初めて祖母と会話が出来るようになったという。もちろん、祖母の喜びようは半端ではなかったそうだ。
そういえば、台湾の日本語族を取り上げた映画『台湾人生(旧題:逍遥日記)』でも、日本語以外できない老人が、「孫が日本留学して、いつかおしゃべりできるのが楽しみ」と話す場面があったのを覚えている。
戦後60数年を経てもなお、日本語を媒体として会話する家族がいる。日本が台湾に残したものの大きさはまだまだ計り知れない。台湾で垣間見える日本を少しでも多く見つけられたらと思う。