2011年11月30日
台湾独立建國聯盟中央委員 宗像隆幸
11月17日に黄昭堂・台灣獨立建國聯盟主席が急逝した。若い時から私は50年も昭堂兄と一心同体であるかのような気持で独立運動を続けてきたので、計り知れない大きなショックを受けた。数年来、昭堂兄の体力が目に見えて落ち、最近では心臓病も悪化していたので、ずいぶん心配していたが、まさか鼻の腫瘍の手術で亡くなるとは夢にも思わなかった。かなり昔のことになるが、昭堂兄は同じような手術を受けた事があるからだ。昭堂兄も、この手術を簡単に考えていた。
亡くなる1週間前に、私は昭堂兄と今後の独立運動などについて話し合った。11月8日に事務的な用事のために来日した黄昭兄は、翌9日の昼過ぎ、私に会いに来てくれた。そのとき彼は、「来週17日に鼻の腫瘍を手術するが、一晩入院するだけで翌日には退院する」と話していたのである。ところが、手術が終わってまだ麻酔が覚めない間に大動脈乖離が起きて、昭堂兄は急逝してしまった。彼は自分が死んだことも知らないであろう。せめてそのことが、良い死に方であったと思うしかないのであろうか。
私が昭堂兄の思い出を綴ろうとすれば、1冊の本を書いても書き足りないと思うが、真っ先に思い出すのは黄昭堂兄が台湾青年会(台湾青年社を改称、台湾独立建國聯盟日本本部の前身)の委員長になった頃の事である。
1960年2月、王育徳先生(当時、明治大学講師)と黄昭堂兄など台湾人留学生5人が集まって台湾青年社を結成、日文版機関誌『台湾青年』(隔月刊、第9号より月刊)を創刊した。1961年7月から私は、『台湾青年』の編集に協力することになり、この時に昭堂兄と知り合った。日本に留学している台湾人が続々と台湾青年社に加盟してメンバーが増えると、彼等は『台湾青年』の出版だけでなく、台湾独立を目的とする組織的な活動にも力を注ぐことを要求するようになった。
あの頃の台湾人留学生の多くは、実質的な政治亡命者であった。当時の台湾は戒厳令下に置かれ、蒋介石を絶対的な独裁者とする中国国民党の支配下にあり、台湾人は「白色テロ」と呼んだ恐怖政治に脅えていた。もし、蒋介石政権を批判したことが知られると、その人物はたちまち特務機関に逮捕されただけでなく、彼の友人たちまでが逮捕されて重刑に処された。特に若くて優秀な知識人たちは、反独裁政権活動を行なうのではないかと警戒されていたから、何時逮捕されるかわからなかった。彼等の多くはこの恐怖政治から逃れるために、兵役をすませると留学試験に殺到したのである。独裁政権の目的は危険分子を国外に追放することであったから、家族などが留学生に仕送りをすることは認められなかった。外国の奨学金を貰えなかった台湾人留学生は、アルバイトをしながら修士号や博士号を取得したのである。国民党から留学にかかる費用と小遣い銭まで貰っている者もいたが、彼等の役割は台湾人留学生の反国民党活動を監視することだったから、「特務留学生」と呼ばれていた。
台湾人留学生の大部分は国民党政権を増悪していたから、彼等の中から台湾独立運動に参加する者が輩出したのである。欧米諸国にも多数の台湾人留学生がおり、特にアメリカが圧倒的に多かった。彼等を台湾独立運動に参加させるために、大量の『台湾青年』が彼等に送られた。当時の台湾の若者は、日本語が読めたからである。しかし、数年たつと、日本以外に留学した台湾人で日本語を読める人は少なくなったので、日文版とは別に中文版の機関誌も発行された。
当初の台湾青年社は『台湾青年』誌の編集会議が幹部会のようなものであったが、メンバーが増えて活動分野も広くなったので、1963年5月に中央委員会が設置され、台湾青年社は台湾青年会と改称された。台湾の親兄弟などに迷惑をかけないために、メンバーの多くは秘密メンバーであり、秘密投票によって中央委員が選出され、中央委員会によって黄昭堂が委員長に選出された。任期は1年だったので、1年後の1964年5月、中央委員選挙が行なわれ、黄昭堂が委員長に再選された。秘密にされていたこの中央委員の名簿が国民党側によって暴露されたのである。しかも名簿の上位は得標順になっていたから、それを知っているのは中央委員選挙の開票に立ち会った数人の者だけであった。調査の結果、中央委員の名簿を国民党側に通報したのは陳純真以外にありえないことがわかった。
そこで陳純真を台湾青年会の事務所に呼び、黄昭堂委員長以下7人の幹部が彼を査問した。初めのうち陳純真は容疑を否認したので、7人のうちの一人が怒って鉛筆削り用のナイフで陳を傷つけた。とっさの出来事であった。陳の傷は軽かったが、彼を病院に連れて行って手当を受けさせた後、査問を続けた。陳純真は国民党の駐日大使館の幹部に脅迫されて、中央委員の名簿を彼に渡したことを認めた。
毎日、事務所には7、8人のメンバーが集まって、いろいろな仕事で忙しく働いていた。黄昭堂委員長は、「必要な資金は自分が集める」と言って、メンバーが積極的に活動することを奨励した。私は事務所に住み込んで、『台湾青年』を編集し、事務所を管理していたが、昭堂兄は資金集めのために東京で企業を経営している台湾人の間を巡り歩き、夜事務所に戻ってくると、私と安物ウイスキーを飲むこともあった。彼が「資金集めはまるで芸者だ。大義を説いてもなかなか寄付してくれないから、いろんな自慢話や悩みを聞いてあげなくてはならない」と話したことを、私は今も忘れることができない。
陳純真の査問から2か月ほどたった1964年7月23日、彼を査問した黄昭堂以下7人が突然、警視庁に逮捕された。国民党側が我々を殺人未遂罪で告発し、警視庁は我々を傷害、監禁強要罪容疑で逮捕したのである。我々は26日間拘留された後、釈放された。この事件を担当したのが警視庁の外事課だったせいか、取り調べは非常に紳士的であった。私は「話せないことは話さない。話せることは何でも話す。嘘は一切話さない」と言って、その通りにしたが、私を担当した警部補との間には一種の信頼関係が生まれた。取り調べのない日曜日は退屈したぐらいで、けっこう楽しい経験であった。我々は全員有罪になったが、執行猶予がついたので、独立運動を続けることに支障はなかった。
その後、何人もの幹部が委員長になった。昭堂兄は「出来るだけ多くの人に委員長を経験させたい」と言って、いくら委員長に推薦されても自分は引き受けなかったからである。そのうちに気づいたことであるが、誰が委員長になろうと、組織の内部には派閥が出来ず、対立も起きなかった。昭堂兄はそのために如何なる手段も講じているようには見えなかったが、彼が存在するだけで派閥が出来ず、内部対立も起きないのである。このような人物が昭堂兄の他にいるであろうか、と私は思うようになった。彼は度量の大きさが計り知れない大人物だったのだ。2004年2月28日に行なわれた「人間の鎖」運動のことを思い出せば、そのことに御賛同いただけるのではなかろうか。
「人間の鎖」運動を主催したのは手護台湾大聯盟で、李登輝・前総統が総招集人であったが、執行招集人として昭堂兄が采配を振るった。台湾の南端から北端まで人々が手を繋ぐには、100万人が必要と言われていた。実際には台湾の人口の1割に当たる220万の人々が、台湾の最南端から最北端まで、台湾海峡に面した海岸線に人間の鎖を作り、中国に向かって「台湾イエス、中国ノー」と叫んだのである。
2000年の総統選挙では、国民党候補は連戦であったが、宋楚瑜が国民党を脱退して無所属で立候補したために、民進党の陳水扁が39.3%の得票率で総統に当選した。しかし、2004年には連戦と宋楚瑜が手を握り、総統・副総統候補として立候補したので、陳水扁の再選の可能性は殆どないと言われていた。陳水扁がわずか0.228%差の奇跡的な勝利を収めたのは、総統選挙の直前に行なわれたこの人間の鎖運動が成功したからであろう。
あの人間の鎖を作る2、3か月前の事であるが、昭堂兄は私に「人間の鎖を作るメドがついた。もし、人間の鎖を作ることに失敗したら、海に飛び込んで自殺するつもりだった」と話してくれた。昭堂兄の力量とこの決意が、あの人間の鎖を成功させたのであろう。
来年1月14日、台湾では立法委員選挙と同時に総統選挙が行なわれる。台湾独立建國盟は、民主進歩党が蔡英文主席を総統候補に決定する2か月前の本年2月25日、他の組織に先んじて彼女を総統候補に推薦した。黄昭堂主席が健在であったら、「人間の鎖」を作った時と同じように、陣頭に立って蔡英文候補の支援活動を行なったに違いない。黄昭堂主席は、蔡英文候補の支持者が力を合わせて彼女を支援し、当選させることを祈願しているであろう。