【11月20日付 東京新聞】
第二次世界大戦中、台湾から日本に派遣され、海軍工員として軍用機の生産に従事し
た少年たち。彼らの人生の足跡をたどったドキュメンタリー「緑の海平線〜台湾少年工
の物語〜」が29日、NHK衛星(1)「BS世界のドキュメンタリー」(午後9時
10分−同10時)で放送される。 (近藤晶)
「少年工の話は、台湾でもあまり語られておらず、こんな歴史があったのかと非常に
驚いた」と、「緑の海平線」のプロデューサーで、慶応大学環境情報学部専任講師の藤
田修平さん(34)は語る。
藤田さんは一九九九年、映画製作を学ぶため、米・南カリフォルニア大大学院に留
学。「緑の海平線」の郭亮吟監督は、大学院の同級生だった。二人は二〇〇二年、卒業
作品として、郭監督の家族と「ゼロ戦」に関するドキュメンタリーを制作。その取材過
程で、台湾少年工の話を聞いた。
大戦中、日本の青年男性は戦地に動員され、国内は深刻な労働力不足に陥った。旧海
軍は軍用機生産増強のため、台湾から約三万人の少年工派遣を計画。一九四三−四四年、
約八千人が神奈川県の「高座海軍工廠(こうしょう)」に送られてきた。そこで短期間
の訓練を受けた後、日本各地の軍需工場で軍用機生産に従事したという。
留学を終えた藤田さんは、海軍工廠の宿舎があった同県大和市に転居し、二〇〇三年
から本格的な調査を開始。台湾少年工に関する公的な文書はほとんど残っていなかった
ため、同市や防衛省のほか、台湾の当時の新聞記事や、米公文書館などで資料を探した。
撮影は台湾、日本、米国、中国で行い、完成までに四年を要した。
「日本で技術を学びたかった」「田舎は貧しく、就職先は限られていた」。台湾の元
少年工たちは、インタビューの中で応募した動機を振り返る。「半工半読」。働きなが
ら勉強でき、旧制中学と同等の学歴が与えられるという条件から、進学をあきらめてい
た少年たちが数多く応募した。
日本では、「ゼロ戦」「月光」「紫電改」「雷電」といった戦闘機の製造に従事。し
かし戦局は急速に悪化、学ぶ機会はほとんど与えられず、本土空襲で幼い命を落とす少
年工もいた。終戦と同時に、台湾に戻った者は国民党政権下の厳しい社会の現実に直面
する。一方で日本にとどまったり、その後さらに中国へ渡ったりと、歩んだ道はさまざ
ま。「政府や誰かに頼ることはできず、自分に頼るしかなかった」。異なる道を選んだ
彼らの人生もまた、政治や社会に翻弄(ほんろう)されていく。
インタビューで元少年工たちは、北京語ではなく台湾語や客家語で語る。「言語的に
抑圧されてきた台湾では、言語というのは非常に大事。一番話しやすい言葉でないと感
情が出てこない。自分自身の歴史に関することは、自分の言葉で語ってほしかった」と
藤田さん。インタビュー取材は、数十人に上った。
昨年、完成した作品は、台北国際映画祭ドキュメンタリー部門コンペティションで審
査員特別賞を受賞するなど数々の映画祭で高い評価を受けた。台湾では大学などで約六
十回上映、今年二月にはテレビでも放送され、大きな反響を呼んだ。
「緑の海平線」というタイトルは、少年工たちの風景の記憶に由来している。日本へ
たった彼らの多くが、期待と不安の中、船の甲板から見つめていた故郷が、徐々に“海
平線”に沈んでいく姿を忘れられない風景として語ったのだという。
藤田さんは「日本、台湾、中国を含めたアジアの歴史はこんなふうに絡み合っている。
元少年工たちそれぞれの人生を通して、もう一度歴史について考えてもらえれば」と話
している。
●メルマガのお申し込み・バックナンバーはホームページから
http://www.ritouki.jp/
●投稿はこちらに
ritouki-japan@jeans.ocn.ne.jp
日本の「生命線」台湾との交流活動や他では知りえない台湾情報を、日本李登輝友の会
の活動情報とともに配信するメールマガジン。
●マガジン名:メルマガ「日台共栄」
●発 行:日本李登輝友の会(小田村四郎会長)
●編集発行人:柚原正敬