http://www.sankei.com/world/news/170718/wor1707180036-n1.html
史上最長とされる38年もの「戒厳令」の解除から30年を迎えた15日の夏空を見届けるかのように
して、蔡焜燦(さい・こんさん)氏が17日、台湾で90年の生涯を閉じた。司馬遼太郎著「台湾紀
行」に博覧強記の「老台北」として登場するこの実業家。戦後の台湾を強権支配した中国国民党政
権の重圧を、戦前の日本統治時代に受けた教育ではねのけて生きてきた。
憲法停止により政治活動や言論が弾圧され、「白色テロ」と呼ばれる市民の一方的な逮捕や投獄
が横行した時代。高校生だった2歳年下の実弟、焜霖(こんりん)氏がいわれなき罪で連行された
1951年のこと。拘束された建物の周囲で蔡氏は何週間も、弟に聞こえるように日本語で名を呼んだ
り、日本の歌を歌ったりした、と話してくれたことがある。
国民党が中国大陸から連れてきた守衛らは日本語が理解できない。「オレが必ず助けてやると焜
霖に伝えるには、日本語で叫ぶのがいい」と考えた。だが、叫びもむなしく、国民党政権に反発す
る文書を書いたとして、焜霖氏は離島の監獄に10年間も監禁された。
蔡氏は、「助け出せなかった無念はいまも残る。だが、日本時代の教育を受けた台湾人は自分が
正しいと考えれば屈しない。焜霖は歯を食いしばり、必ず戻ってくると信じていた」とも言った。
釈放後、焜霖氏も実業家として成功した。
自ら「愛日家」を標榜(ひょうぼう)する蔡氏。日本や日本人がただ単純に好きだからではな
い。「社会という『公』に尽くす日本の精神。教育を通じてわれらの世代から子供、孫、ひ孫まで
台湾人に脈々と生きている。台湾の発展は日本教育があり、人が育ったからこそ。万人身勝手で
『私』の利益しか考えない中国人とは完全に異なる」との意識からだ。
「台湾紀行」が契機となって、李登輝元総統(94)と意気投合して親交を深めたのも、戒厳令を
経て民主化が始まった戦後台湾で、互いに「公の精神」をブレずに追い求めていたことが即座に理
解できたからだ。2人の共通語は日本語だ。
蔡氏は、台湾総督府で戦前、民政長官を務めた後藤新平の言葉が信条だと話していた。すなわ
ち、「カネを残す人生は下。事業を残す人生は中。人を残す人生こそが上」だ。1人でも多くの日
本人や台湾人に、私財をなげうってでも「公の精神」を伝えたかった。そして数多くの「人」を残
して、蔡氏は旅立った。
(元台北支局長 河崎真澄)