本会の李登輝学校研修団では講師として、緑島などでなんども台湾の白色テロ時代についてご講義いただいた。お聴きするたび、非業の死を遂げた仲間への思いがひたひたと伝わり、蒋介石・蒋経国時代という台湾のむごい時代がリアルに迫ってきた。
2・28事件が勃発したこの季節になると、2・28事件や白色テロについて話される機会が多いという。2014年には台湾独立建国聯盟日本本部が日本にお招きして「台湾の白色テロ 1950年代─その実情と現代における意義」と題してお話しいただいた。
このほど、台北市内で開催中の台北国際ブックフェアに登壇し、かつて政治犯が収容された東部の離島、緑島の刑務所で過ごした歳月について語ったという。中央通信社が伝えているので下記にご紹介したい。
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蔡焜霖(さい・こんりん)氏:1930(昭和5年)、台湾台中州清水街(現台中市清水区)に生まれ、台中一中在学中、読書会に参加したことで、卒業後の1950年9月に逮捕。非法組織参加の罪で懲役10年の刑を課せられ、台湾本土の拘置所で8ヵ月、残り9年4ヵ月は火焼島(緑島)で服役。1960年9月に釈放後、淡江大学フランス文学科に学び、1966年に児童誌を創刊。1968年に台湾東部僻地の紅葉小学校の少年野球チームを援助して全国大会で優勝させたことにより台湾少年野球の黄金時代を現出する契機を作る。その後、実業界で活躍。現在、流暢な日本語を駆使して翻訳やガイドに活躍。故蔡焜燦氏は実兄。
————————————————————————————-白色テロの被害者が語った獄中生活 仲間の非業の死は「永遠の痛み」【中央通信社:2019年2月13日】http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201902130005.aspx
(台北 13日 中央社)戒厳令下の台湾で横行した白色テロの被害者、蔡焜霖さんが12日、台北市内で開催中の台北国際ブックフェアに登壇し、かつて政治犯が収容された東部の離島、緑島の刑務所で過ごした歳月について語った。1枚のメモが原因で死刑に処された仲間の死は、永遠に忘れることができない心の痛みだと明かした。
1949年に戒厳体制に入った台湾。戒厳令が解かれる87年まで集会や結社、言論の自由などが厳しく制限され、特に50年代初めには当時の国民党政権から反体制派とみなされた多くの人々が投獄、処刑された。30年生まれの蔡さんは、高校2年生の時に読書会に加入していたことが非合法組織参加に当たるとして50年に懲役10年の判決を受け、51年に受刑者第1陣として、当時水道も電気もなかった緑島に送られ、屋外労働に従事した。刑罰としては最も軽い部類だったという。
受刑者仲間は正義感に富んだ優秀な知識人ばかりで学ぶところが多く、「私にとっては得難い機会で、ある意味幸運だった」と語る蔡さん。苦労や辛さを感じたのは服役中よりもむしろ社会に復帰してからだったと振り返った。
蔡さんが今も鮮明に記憶しているのは、獄中生活で意気投合した歌好きの友人の非業の死だ。その友人は、中国の愛国歌「歌唱祖国」の歌詞を書いたメモを獄中で同郷の人に回したことがきっかけで、当局に反乱を企んでいるとの疑いを持たれた。本来3年の刑期延長で済むはずだったが後に再審が決まり、関係者10人余りが全て死刑判決を受けた。「読書好きで無邪気な若者たちが死刑に処されてしまった」と嘆く蔡さんは、今でもよく、真夜中に当時のことを思い出しては悲痛な気持ちにさいなまれるという。
(魏紜鈴/編集:塚越西穂)