台湾における日本教育の成果
エッセイスト・日本李登輝友の会会員 酒井 杏子
台北から本が届いたとき、一瞬、教科書かと思った。表紙には水彩で、台中一中の学舎と頭上に広がる青く明るい台湾の空が描かれ、大きく朴訥な字で『いつも一年生』とあったからだ。
聞けば、人生の節目はすべて一年生であり、それらを積み重ねた自伝のよう、自伝ならば人に紹介するまでもないと初めは思った。
人は自分の知らない人の人生にそれほどの興味は湧かないものだし、まして廖氏のように平均点が80点以上という幸せと強運を享受してきたような人間の自伝くらい、読んでいてつまらない本はないからである……と高を括って読み始めたのだが、読み終わる頃にはすっかり気が変わっていた。
淡々とした中に不思議な推進力がある本で、娘の言を借りると「カルテみたいな文章なのに、読みだしたら止まらない」のだ。
“カルテみたいな文章”は、氏が在職中、常に薬学や化学といった自然科学系の畑を歩いてきた間の副産物なのだろう、極めて簡潔で無駄がない。
だが、著者の熱い体温や言葉に綺羅の飾りがない代わりに、そこには徹底したリアリズムと、自然科学に携わってきた人らしい綿密な資料調査と緻密な観察眼が随所にほとばしっている。
それからすると、本書は自伝の形はとってはいるが、最終章の「海外旅行一年生」を除くと、著者の興味と主眼は“自分”ではなく、むしろ戦前〜戦中〜戦後と台湾や日本で生活した体験を通し、自己を取り巻くその時々の社会や世相、時代の空気を残すことに置かれているのではあるまいか。
歴史的資料というなら、ぼやけた曖昧な表現をしない分、この本の信憑性は高いといえよう。
もちろん、自伝のもつ弱点として、人名等の固有名詞が多く登場することは否めないが、廖氏は彼らをエピソードの素材として友情出演させているだけで、私的な世界だけに引きずり込もうとはせず、常に全体の中で位置付け、客観視する冷静さを忘れていない。これは氏の根っからの資質であり、知性のなせる業なのであろう。
戦前から戦後の日台を様々な切り口から出版した本は多いが、あえて差別化するならば、本書のように著者が戦中〜戦後、職業人として体験した職場事情を描いた作品を私は知らない。
そしてもうひとつ、この書を語るうえで外せないことがある。廖氏の記憶力のよさもさることながら、“数字の扱い”の上手さである。
昨今の学者・評論家・ノンフィクション作家の方々は、事実(史実も)を裏付けるために数字を多用するが、多くは数字だけが踊って“上滑り”している傾向がある。実感として読者に伝わってこないのだ。このことは持論を展開する上で、大きな損失だと思う。
たとえば本書のなかで、著者が台湾の公学校時代、海外に行っていた親族が帰省したときの土産の『小学四年生』(小学館発行)に夢中になり、父親に購読をせがむ箇所がある。結局、承知してもらえなかったのだが、時節は上海事件(昭和7年。1932年)の頃で、『小学四年生』の購読料は毎月52銭。当時、村のお祭りでもらうお小遣いが5銭程度とあれば、いかに購読料が高かったか、おおよその想像がつく。身に引き寄せた数字の使い方の一例である。資料や数字を扱う方々にはぜひ一読をお勧めしたい。
だがさらに、著者の無意識なこうした習慣が、もしかつての台湾での日本の教育に端を発していたと気づいたら……あなたは熱くならないだろうか。
私はその源を本書の中で見つけたのだ。少し長くなるが引用してみたい。廖氏は昭和5年(1930年)に台中の西屯公学校(台湾人教師8人。日本人教師10人ほどがいた)に入学している。そこでのこと。
「……実践教育の一環として、廊下に机を並べ、いろいろな重さの石やいろいろ長さの竹や木の枝をおき、自由に学童に触らせて度量衡の概念を植える課外授業にも力を入れた。重さや長さを体で覚えさせたのである。今の子供は概念でものを覚えるから、試みに三十センチメートルはどのくらいか手で示させるととんでもない長さになることがある。物を持たせても重さの概念がない。(中略)当時の学童はこのような実地的数学を結構習っていた。だから公学校六年の課程を終えると、給仕や丁稚ぐらいになれた。」
後年、戦前の日本が台湾統治下で行った教育をひとくくりに「あれは植民地での皇民化教育だった」と断定する人がいるが、すべての科目でなかったにしろ、こうした教育が実際に行われていた事実を前にして、誰がそういう評価をくだせるだろうか。
最後に、廖氏が本稿を執筆するにあたり、その動機をこう記している。
「おびただしい人類の歴史が個人の歴史の集積であるように、個人も小さなドットの集積で構成されている。/たとえ、ここに放出するドットが無用になっても、何時の日か、どこかで、誰かが拾い上げてくれるかもしれないと、記録した。」
廖氏は電話で私に「孫娘が『おじいちゃんの本を読みたいけど、英語じゃないから読めない』と言うんですよね。でも、私にはこれからこの本を英語にも中国語にも翻訳するだけの力は……もうない」と寂しそうに笑った。
私の娘が氏の本を読んで感動したように、将来、彼が書いた日本語のこの本を拾い上げてくれる若い誰かが、はたして台湾に残っているだろうか……と、ふと、そんな思いが頭をよぎった。