サービス貿易協定承認手続きの強行採決に反対して立法院の議場占拠を続け、馬英九政権に抗議
する「向日葵学運」(ひまわり学生運動)の学生の一部数百人は23日の夜、1ブロック離れた行政
院の敷地内に警官隊の警備を突破して突入して座り込んだ。
これに対し、馬英九総統に指示を仰いだ江宜樺・行政院長は強制排除を警察に命じ、12時過ぎか
ら強制排除に乗り出した。ところが、断固として退去に応じない者も多かったことから、午前4時
半ごろに高圧放水車を繰り出し、強力な放水を学生たちに浴びせて抵抗力を奪った。
ずぶ濡れになりながら警官に引きずり出される光景は、強権を発動して戦車で数百名の学生を殺
戮した天安門事件を連想させるに十分なものだった。この馬英九政権による強制排除で学生ら61人
が逮捕され、衝突による負傷者は警官、学生ら双方で107人に上ったと伝えられる。
王燕軍・李登輝元総統弁公室主任を派遣して学生たちを慰問させた李登輝元総統は21日夜、「馬
総統は彼らの話を聞いて、早く学校や家に帰す努力をするべきだ」と述べ、22日にも「もし私がい
ま総統であれば、今度の学運の学生たちと対話して、彼らの要求をじかに聞き取り、学運をいいよ
うに処理する」と述べ、馬総統が向日葵学運の学生たちとの直接対話するよう促した。
本会の「台北事務所ブログ」が、本誌でも紹介した1990年3月の李登輝元総統と学生たちとの直
接対話の詳細や、今回の占拠事件に対する李元総統の感懐を伝えているので下記に紹介したい。
学生たちだって国のためを思って行動している
【日本李登輝友の会・台北事務所ブログ:2014年3月 21日】
http://twoffice.exblog.jp/22323091/
今週18日火曜日夜から、学生たちが立法院を占拠しているが、奇しくも24年前のちょうど同じ時
期、立法院から徒歩でも10分ほどの中正紀念堂に、やはり大学生たちが集まり、座り込みやハンス
トを展開した。
この運動は「三月学運」や「野百合学運」とも呼ばれ、台湾民主化が本格化する端緒となった学
生運動として知られている。野百合は、台湾固有種であり、春にその白い花を咲かせ、純血や生命
力の強さなどを象徴することからその名が付けられた。
この学生運動は、1990年3月16日、万年国会に抗議する大学生数名が、当時デモや集会の禁止地
域に含まれていた中正紀念堂で座り込みを始めたもの。
この抗議行動が報道されると、翌日から支援者が数百人規模で増え続け、最終的には6,000人近
い大学生が参加したといわれている。李登輝総統は万年国会解消のため、高額の退職金や年金と引
き換えに国民代表らの引退を促していたが、学生たちの当初の抗議目的は、国民代表らの傲慢な態
度に対してであった。
当時、戒厳令はすでに解除されていたものの、国民大会は「万年国会」と呼ばれ、その根拠とな
る動員戡乱時期臨時条款は未だ撤廃されていなかった。
18日には、学生たちは正式に民主化に関する「四大要求」を提出し、ときの李登輝総統に対し、
憲法改正や国是会議の招集、民主改革のタイムテーブルの提示などを求めたのである。
当時、総統の座にあったとはいえ、李登輝総統は1988年1月に急死した蒋経国総統の後を継ぎ、
憲法上、総統に昇格したに過ぎない名目上のみのロボット総統であったともいえる。
さらに、このころ党内では主流派と非主流派の争いが熾烈を極めており、李登輝総統はその板挟
みに遭いながら困難な政権運営を強いられていた。李登輝総統が李元簇副総統候補とともに国民大
会の支持をとりつけ、選挙を勝ち抜いて名実ともに総統の座を手に入れるのは三月学運の直後のこ
とである。
李登輝総統はまだ肌寒く、夜には冷え込む3月、学生たちが寒さに震えながら座り込みやハンス
トをしていることを知ると、自ら中正紀念堂に赴いて学生たちと対話することを望んだが、国家安
全局による「万全の警備ができず、総統の身の安全を保証できない」という強い建議により、夜間
に車両で中正紀念堂の周囲を走り、学生たちの様子を観察するに留めたという。
20日、総統府はプレスリリースを発表し、学生たちの要望を受け入れ、国是会議を開催すること
などを決定。総統府秘書長を現場に派遣し、学生代表と直接会って対話することを伝えた。
翌21日、総統府内へ入った学生代表53名を前に、李登輝総統はその要求に耳を傾けるとともに
「皆さんの要求はよくわかりましたから、中正紀念堂に集まった学生たちを早く学校に戻らせ、授
業を受けるようにしなさい。外は寒いから早く家に帰って食事をしなさい」と言葉をかけている。
余談だが、李登輝総統は寒空の下で座り込みをする学生たちを案じ、孫震・台湾大学校長へ電話
を掛け、中正紀念堂へ行って学生たちに声を掛けてまわるよう依頼したが、結局孫震は耳を貸さな
かったという。
孫震は台大経済系出身で、李登輝総統の台大での教え子。その関係もあって李登輝総統は孫震に
電話をして学生たちをいたわるように頼んだわけだが、たとえ恩師の頼みより、党の顔色を伺った
ということか。後に孫震は国防部長(国防大臣)に就いている。
そして現在の国民党で行政院スポークスマンを務めているのが息子の孫立群だというのは時代の
めぐり合わせである。
李登輝総統と面会した当夜、学生代表団は協議し、中正紀念堂における占拠を翌22日早朝に終了
し解散することを決定。22日早朝に正式に解散を宣言して撤退を開始した。
その後、李登輝総統は学生との約束通り、民主化へのタイムテーブルを発表。万年国会を解散さ
せるとともに、6月には国是会議を開いて民間から広く識者を招聘して民主化への意見を求めた。
当時の台湾社会における機運は、学生運動を中心とする民主化の要求と、政府側のトップである
李登輝総統自身の民主化への意欲という双方のエネルギーがうまく噛み合って進められたと言って
よい。つまり、民間の要求と体制側の意欲が合致していたのだ。
現在に目を向けると、「台中サービス貿易協定撤回」の要求を掲げて立法院を占拠する学生運動
は、24年前の野百合学運を彷彿とさせる。事実、今回の学生運動は「太陽花学運(太陽花は中国語
でひまわりの意)」と名付けられた。しかし24年との決定的な違いは、政府側のトップがまるで学
生たちの声に耳を傾ける気のないことだ。
事実、現時点で馬総統は立法院を占拠する学生たちに対しメディアを通じて声をかけることもな
ければ、誰かを派遣することもなく、学生たちの要求に対して何の反応も見せていない。
21日夜、晩餐会へ出席した李登輝元総統はメディアの質問に対し「学生たちには学生たちの意見
がある。彼らだって国家のためを思って行動している。馬総統は彼らの話を聞いて、早く学校や家
に帰す努力をするべきだ」と馬総統の対応を非難している。
「ただただ国民のためになるように政治をやってきた」と回想する李登輝元総統と、国家や国民
という考えもなく、中国の顔色を伺い、党のことしか頭のなかにない馬英九ではもはや役者が違
い、比べるべくもない。