決して“楽しい”映画ではない。ドキュメンタリー作品だ。紹介されるエピソードひと
つひとつに、衝撃を受ける。見ている自分は日本人だ。日本に生まれたことで、ずいぶん
と恩恵も受けている。しかし、日本という国は、日本人は、彼らをどう扱ってきたのだろ
う。今からでもよい。やるべきこと、やれることはないのか。改めて考えてしまわざるを
えない。酒井充子監督の作品『台湾アイデンティティー』を見た。日本統治下に生まれ育
った台湾人たちの、戦後における「その後」を追った作品だ。同作品は7月6日よりポレポ
レ東中野ほか全国順次ロードショー。(写真:(c) 2013マクザム/太秦)
日本統治下の台湾で生まれた出演者数人が、自分の人生を語る。いずれも、日本による
教育で自分が形成されたと主張。そのことに対する恨みはない。逆に、日本的な精神を得
たことを誇りに思っている。「日本人にはよくしてもらった」との言葉も出る。男性は日
本の軍人にもなった。軍人になることが「当時は誇りでした」と語る。
日本の敗戦後、彼らの運命は苛酷だった。中国から戦勝国として蒋介石率いる国民党が
やって来た。まずは、中国大陸部で始まった国共内戦の「財源」として台湾を利用した。
台湾の経済は混乱した。
決定的だったのは、1947年の2.28事件だ。たばこを密売していた女性に国民党当局の取
締官が暴行を加え、集まった群衆に発砲したことで死者も出た。大規模な抗議運動が発生
し、公的施設のいくつかを掌握。反撃に出た国民党側は大規模な武力投入で弾圧。台湾人2
万8000人あまりが殺害・処刑されたとされるが、被害者の数は今なお定説がない。
『台湾アイデンティティー』の出演者は、当時の状況を生々しく語る。「裁判もなにも
ありません。疑いだけで連行して、見せつけるために銃殺」、「(勤めていた)学校で
も、殺された先生がいました」などの証言が次々に出る。
日本の教育を受けた人、自らの努力で「日本社会の一員」としての将来への展望を得は
じめていた人にとって、自分がいつ抹殺されてもおかしくない状況だった。その後も、国
民党による恐怖政治、いわゆる「白色テロの時代」が1987年まで続いた。
出演者は「日本は負けた。そうしたら、『さよなら』と帰っていっちゃった」と語る。
そして、大陸から国民党がやって来た。酒井監督に、出演者の日本統治時代への記憶につ
いて尋ねたところ、「日本統治時代を、美化している面はあると思う」という。その後の
時代がひどすぎたからだ。
「日本が負けたからしかたない」と涙する出演者もいる。撮影スタッフももらい泣きし
たのだろうか。カメラに向かって「泣かないでください」と語る。敗戦で力を失った日本
に見捨てられたことで人生が暗転したのに、目の前にいる日本人への気づかいを忘れな
い。こちらも目頭が熱くなる。
それ以外の出演者からも「生まれた時代が悪かった」、「これが私の運命」という言葉
があった。日本を大いに恨む気持ちを持ってもおかしくない。しかし、他者に対する憎し
みで自分のつらさを解消しようとはしない心のありかたには、崇高さすら感じる。
日本を信じ、戦争に身を投げ出して戦った台湾人。日本はその後、彼らに何をしてきた
か。ほとんど何もしていないとしか言いようがない。「日本語世代」などと言われる彼ら
は高齢だ。彼らに対してできること、すべきことはないのか。現実として、残り時間は少
ない。
終戦当時、日本軍の軍人だった呉正男さんは、現在の北朝鮮で勤務していたため、ソ連
軍の捕虜となりシベリア抑留生活を送ることになった。抑留生活を送っていたから、台湾
における白色テロに巻き込まれずにすんだと語る。しかし、重労働や配給食料の不足、い
つ帰れるか、生きて帰れるか分からない抑留生活を強いられたことには変わりない。
2010年になり日本の国会で「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立
し、シベリア抑留者に特別給付金が支払われることになった。金額は25万から最大で150万
円とわずかだ。抑留者が長期間にわたり強いられた心身両面の苦痛からすれば、本当
に“気持ち”としか言えないものだ。
上映に併催されたトークイベントで、呉さんは同給付金に触れた。支給のために、「平
成22年6月16日に存命」であるだけでなく、「日本国籍を有する」との条件が設けらたこと
を批判。「日本国籍」は戦争関連の補償などについて回る条件と説明し、シベリア抑留に
は数千人規模の朝鮮出身者もいたことも説明しつつ、対象を現在の日本国籍保有者だけに
限ることを「日本の評判を落としてしまう。日本を愛する台湾人として、残念なことで
す」などと述べた。
* * *
『台湾アイデンティティー』では、出演者が直接語った内容以外にも、彼らの「アイデ
ンティティー」について考えされられるシーンがあった。例えば、学校教員をしていたと
いう90歳男性、黄茂己さんの話だ。撮影場所は、かつて勤務していた学校の運動場にある
ベンチだ。しっかりとした日本語で、さまざまな思い出を語る。そこに、年配の女性が通
りかかる。
黄さんは「彼女は僕の教え子」、「(彼女には)孫もできた」と紹介。女性とあいさつ
を交わすが、台湾語だ。女性は改めて撮影スタッフの方を向き、「いい先生だったんです
よ」などと黄さんを紹介。今度は北京語だ。
台湾語は福建省方言に近い言葉。北京語は台湾の公用語で、「国語(グオユー)」と呼
ばれている。相互の意思疎通は、ほとんど不可能だ。女性は「外部から来た撮影スタッ
フ」を見て、北京語で話しかけたのだろう。
黄さんと女性はもうしばらく会話を続けるが、最初は北京語のまま。しかししばらくす
ると、自然に台湾語での会話に切り替わる。女性が去り、改めてカメラに向った黄さん
は、再び日本語で語りはじめた。
人格形成期に身につけ、今でも精神的基盤と直結している日本語、必要に応じては問題
なく使える北京語、そして同郷人との自然な意思疎通の手段である台湾語。たしかに、す
ばらしい語学能力だ。しかし、そのような語学能力を身につけざるをえなかった彼らのこ
れまでの人生を考えると、どうしても複雑な気持ちになる。
(編集担当:如月隼人)