歳だった。老衰だったという。
その報を抱えながら、翌18日から台湾を訪問した。蔡先生の逝去を弔うためではなく、前々から
決まっていたことだった。訪台について、蔡先生にはお伝えしていなかった。お伝えすると、体調
が悪かろうが猛暑だろうが会食を準備されるかもしれないので、台湾に着いたら連絡しようと思っ
ていた。ところが、訪台前日の訃報だ。愕然とした。気が重かった。連絡すればよかったと悔やみ
ながら台湾に向った。
蔡先生を理事長として発足した李登輝民主協会の常務理事で、台湾高座会の李雪峰会長が亡くな
られた翌日、ご自宅を訪ねたところ明霞夫人が残るのみで、すでにご遺体は霊安所に移され、祭壇
もしつらえてなかったので、やむなく引き返してきたという話を伝え聴いていた。
台湾で旧知のご子息に連絡を入れた。父の遺言により、葬儀は密葬で行うという。その後、この
5月まで台湾歌壇の事務局長をつとめられていた三宅教子さんから、第2殯儀館近くに霊堂を設けて
いるので、お線香をあげられることをお聞きした。
7月20日午後、同行していた本会の「日米台の安全保障等に関する研究会」委員の金田秀昭氏
(元海将、元海上自衛隊護衛艦隊司令官)と2人でその霊堂にお参りした。
霊堂は人が3、4人しか入れない小さなところだった。名前を記帳するノートがあった。18日から
20人ほどの方が記帳されていて、最初に記していた方は蔡先生の台中の母校、清水(きよみず)公
学校の同窓生だった。三宅さんのお名前もあった。
祭壇に飾られた遺影は、髭がなく、まだふっくらとした写真で、恐らく7、8年前の写真だろう。
その脇にもう1枚写真が飾られていて、「台湾人と日本精神」と題した看板の横で講演されている
写真だった。これは、岡山県の岡山学芸館高等学校の台湾修学旅行のときのもので、撮影したのは
早川友久氏(本会理事、台北事務所長)だ。両手を後に組んで、堂々と、そして晴れ晴れとした感
じで話されている、蔡先生の雄姿と言ってもよい写真だった。おそらく蔡先生お気に入りの1枚
だったのだろう。
この遺影を見つめていたら、どっと寂莫感に襲われた。外は38度の猛暑だった。霊堂の中も決し
て涼しいわけではない。金田氏も汗を垂らしながらお線香をあげていた。しかし、無性に寂しさが
募ってきて、暑さも感じなかった。本当に逝ってしまわれたんだ、と思った。
密葬ということで、台湾でも日本でも「偲ぶ会」を開いて欲しいという声が澎湃として起こって
いる。
台湾では9月半ば、台湾歌壇の方々を中心に「追悼会」を開くことがほぼ決まったようだ。 日
本でも蔡先生とご縁の深い方々とともに、先生に別れを告げる「偲ぶ会」を開きたいと思う。関係
者との相談はこれからなので、詳細が決まり次第、本会ホームページや本誌を通じてお伝えしたい。