年5月20日。蒋介石の国民政府が毛沢東率いる中国共産党と内戦中のときで、国府側が台湾
撤退を準備に入りつつあったときのことだ。
戒厳令下においては集会の自由や結社の自由も許されず、新たな政党の結成も禁止され
た。報道の自由も制限された・
この戒厳令に先立ち、共産党を征伐するとの理由で、憲法を超越する「動員戡乱時期臨
時条款」を1948年5月10日から施行している。これが蒋介石政権の独裁を許した。総統は立
法院の制限を受けず、意のままに緊急命令を発令する独裁権限を得たからだ。
これによって蒋介石は、大陸反攻が成功するまで立法委員や国民大会代表(いずれも国
会議員に相当)を改選しないという緊急命令を発し、台湾人の国政参与の権限を剥奪した
のだった。
そして、2・28事件で芽生えた台湾の人々の台湾独立思想を監視し摘発するため、いわゆ
る特務が暗躍し、密告が励行される「白色テロ」といわれる時代が始まる。雷震事件や彭
明敏事件、林義雄家族殺害事件、江南事件など、不可解な事件が次々と起こるまさに暗黒
時代だった。すべてが「共産党への利敵行為」とされた。「1人の共産党員を摘発するため
なら、100人を犠牲にしてもよい」とさえ囁かれていたという。
台湾は暗黒時代を経て、1980年代後半に民主化のうねりを受け、戒厳令解除要求や台湾
独立の声が公然と聞かれるようになり、ついに1987年7月15日午前零時、世界一長いと言わ
れた戒厳令が解除される。
李登輝が総統に就任後は民主化が急速に進み、動員戡乱時期臨時条款も1991年5月1日
午前零時、廃止されるに至っている。戒厳令より長い43年を経ての廃止だった。これで、
台湾としては共産党との内戦状態を法的に消滅させた。
また、台湾の独立を唱えることも「反乱罪」とみなした悪法「刑法100条」の見直しも進
み、1992年5月16日に改正施行され、ここに初めて言論の自由が確立される。
7月15日は、戦後台湾の暗黒時代が終わったシンボルのような記念日だ。だが、未だ白色
テロの恐怖は台湾の人々の記憶に新しく鮮明なようだ。
台湾の暗黒時代、日本は何も手助けできないでいた。台湾を暗黒時代に後戻りさせず、
国際舞台に羽ばたくよう、今度は日本が手を差し伸べる番だ。
きょう台湾で戒厳令解除26周年
【中央通信社:2013年7月15日】
(台北 15日 中央社)15日午前、台北市内の介寿公園「白色テロ政治受難者記念碑」の
前で、1949〜1987年まで38年間の長きにわたる戒厳令時代の期間に犠牲となった人々をし
のぶ記念式典が、冤罪に対する補償を行う基金団体によって開催され、馬英九総統、林政
則基金団体会長、被害者およびその家族らが出席して行われた。
式典では2・28事件や白色テロによる冤罪被害に遭った本人・家族・遺族に対し、馬総統
は頭を下げ謝罪、名誉回復証の交付が行われ、参会者は1分間の黙祷を行った。
被害者代表として挨拶に立った馮守娥さんは、女子高時代に勉強会に参加していたとし
て卒業後の1950年5月に逮捕され10年の刑に服し、小学校の教諭をしていた兄も同じ日に逮
捕、ほどなくして死刑となったと語った。また馮さんの夫も1947年の2・28事件に関わって
いたとして10年間服役、自分たち家族はこのような理不尽な歴史に青春時代を翻弄され続
けたと語った。
馬総統は挨拶の中で、これら白色テロによる人々の犠牲は国家の内戦に根本的な原因が
あり、一度戦争になれば権力濫用が許され見過ごされるとし、就任以来、両岸関係改善に
力を尽くしてきたことを強調した。また、現時点で補償基金会では195億台湾元分、二二八
基金会では72億元分と、すでに合わせて2万人余りについて補償が行われていると説明した。
(編集:谷口一康)