に執筆いただいている。実は創刊号で、当時の会長だった阿川弘之氏に「台湾と私」と題して寄稿
いただいたのが嚆矢で、以後、この題をリレー・エッセイのタイトルとして書き継いでいます。
阿川先生を偲び、感謝の念を捧げながら、創刊号掲載の「台湾と私」をご紹介します。阿川先生
は歴史的仮名遣いで書かれる方でした。掲載時も仮名遣いは原文のままです。ただし、本誌掲載に
あたりましては、漢数字を算用数字に直したことをお断りします。
台湾と私 阿川 弘之(会長・作家)
【機関誌「日台共栄」創刊号:平成16年(2004年)6月1日発行】
昭和17年の暮、私は台湾高雄州東港の、海軍航空隊の中で、海軍士官(学徒出身の予備士官)に
なる為の基礎教育を受けてゐた。
ある日、東港の町の小学生たちが先生に引率されて、「海軍さん慰問」にやつて来た。年末の学
芸会みたいなもので、色んな唱歌や踊りを披露してくれるのだが、特によかつたのは「一茶の小父
さん」――、陳氏某、林氏某と胸に名札をつけた可愛い女生徒の一と組が、江戸時代の童(わら
べ)になつて、俳人一茶に、小父さんのくには何処かと訊ねる。
「はいはい私のおくにはのう
信州信濃の山奥の
そのまた奥の一軒家」
そこで雀とお話をしていたのぢやと、一茶が答へる。冬も暑い南台湾で、きびしい訓練に明け暮
れてゐる私ども五百数十人の同期生、この歌を聞きながら雪の信州を思ひ出して、みんなしんみり
させられた。
それから30余年の歳月が過ぎ、戦後初めて台湾旅行の機会に恵まれた私は、台湾人の友人に案内
してもらつて、なつかしの東港を訊ねて行つた。あの、色の浅黒い可愛い女生徒たちも、もう中年
の小母さんになつてゐるはずである。誰か、当時のことを語り合へる小母さんに会つてみたかつ
た。
突然の要望で、それらしき人は中に見つからなかつたが、偶然、東港小学校の昔の校長先生と出
くはした。
「さうか。あんた東港航空隊にゐたか。そりやなつかしいだろ。今夜東港に泊つて、名物の蟹食べ
て行け。いつ頃東港にゐたか」
足の少し不自由な老校長先生が仰有る。当時台湾は、蒋政権下の中華民国、失礼の無いやうに
と、頭の中で勘定して、
「民国31年の10月から32年の4月まで……」
言ひかけた途端、思ひもかけぬ一と言が返つて来た。
「年号は昭和で言はないと分らないよ」
びつくりすると同時に、私は涙ぐみさうになつた。
かねて、台湾には日本統治時代、日本語教育のよき一面を、ちやんと認めて、日本をなつかしむ
人たちが大勢ゐると聞いてゐたが、ほんたうにさうなんだなと思つた。実際、東港周辺だけに限つ
ても、東港駅の駅長や、東港線の列車の車掌や、私が日本人旅行者と知つて、なつかしげに声を掛
けてくれる人が、老校長のほかに何人もゐた。
ただし、その「大勢」の中から、10年後、ちやうど年号の「昭和」が終る頃、李登輝といふ傑出
した政治家があらはれ、台湾の総統に就任するとは、想像もしてゐなかつた。台湾生れ台湾育ちの
新しい総統は、新渡戸稲造の「武士道」を高く評価し、日本人よ、武士道精神を忘れるな、もう少
し自信を持ちなさいと、自信喪失症の私たちを励ましてくれる人でもあつた。
個人的に李先生と接触が生じるずつと前の話だが、ある会合の席上、
「今、アジアで一番立派なステイツマンぢやないかね」
私が言つたら、一人にやりとするのがゐた。
「アジアで? 世界でと、言ひ直していただきたいですなあ」
それからさらに10数年の歳月が経ち、その総統が前総統になつて、現在やりたいことの一つは、
俳聖芭蕉の「奥の細道」をたどる旅、これはよく知られてゐる事実だが、私の方の、台湾をなつか
しむ気持の、元の元のところにも、実は前述の通り、俳人一茶がからんでゐるといふ奇妙な因縁が
あるのですよ。