台湾歌壇代表の故蔡焜燦先生は、なぜ台湾の人々の中に日本語で俳句や和歌や川柳が詠まれているのか、その背景について次のように話されていた。
<蒋介石時代に何かの会があって、それに「台湾」と付けられたら、すべては反乱罪になりました。あの有名な金美齢先生が日本へ留学して早稲田に入って、そこで台湾人を集めて「台湾稲門会」をつくりましたが、名に「台湾」を付けただけで、金美齢先生はブラックリストです。30数年間帰って来られませんでした。蒋介石たちは我々に「台湾」という意識を消し去ろうとしたのです。
だから我々は台北歌壇というのを台湾歌壇の名前を正しました。「台湾川柳会」も昔は「台北川柳会」でした。今は堂々と「台湾川柳会」で川柳をやっています。台湾の日本語世代の人は、和歌を詠み、川柳を詠み、俳句を詠み、そして美しい日本語を守るということで、100人以上の会員が今でも美しい日本語の勉強会をやっています。それに対して我々はね、一つの矛盾も感じないし、非常に自然な形で日本の方と付き合っています。>
本誌でも東葛川柳会代表で全日本川柳協会副理事長の江畑哲男(えばた・てつお)氏の活躍ぶりを何度かご紹介しているが、この江畑代表と台湾川柳会の杜青春代表の交流は長く深い。江畑代表は2014年に台湾川柳会20周年を記念し、台湾川柳会と共著で『近くて近い台湾と日本〜日台交流川柳句集』を出版してからは、相互訪問を繰り返し、さらに交流が密になっている。
杜青春代表は、新葉館出版がホームページに設ける19人の「作家ブログ」にも、江畑代表とともに執筆している唯一の台湾人だ。
去る11月17日に「2019年バシー海峡戦没者慰霊祭」が開催され、杜代表も参列したところ、なんとと千葉川柳番傘代表の宗吉みお氏とばったり出逢われたという。近くて近い日本と台湾の間柄を証するような出逢いだ。
杜代表はさっそくブログにそのときの写真とともに驚きぶりをつづっている。下記にご紹介したい。杜代表が「8/26ブログで紹介した『湾生』根井ご夫妻の付き添い」のブログもご覧ください。
◆大発見 湾生と巡る縁の地[杜青春川柳Blog:2019年8月26日】 https://shinyokan.jp/senryu-blogs/seishun/
◆東葛川柳会 http://tousenkai.cute.coocan.jp/
—————————————————————————————–南国は椰子が飲み頃小雪日【杜青春川柳Blog:2019年12月7日】https://shinyokan.jp/senryu-blogs/seishun/
台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡。大東亜戦争末期、南方に向かって航海中の船舶が、米軍の潜水艦による魚雷によって撃沈され、「魔の海峡」、「輸送船の墓場」と恐れられました。この海峡では少なくとも10万、最大で26万とも言われる多くの戦没者が眠っています。
バシー海峡を望む台湾最南端にある潮音寺は、1944年8月に玉津丸が撃沈された後、12日間の漂流の末、九死に一生を得た中嶋秀次さん(2013年10月、92歳で死去)によって、1981年にその半生と私財を投じて建立されました。今日に至るまで、台湾の人々の多大なお力添えの下、バシー海峡戦没者の慰霊施設として存在しています。
戦後70周年にあたる2015年、潮音寺にてバシー海峡戦没者慰霊祭を開催しました。以来、毎年11月に慰霊祭を執り行ない、バシー海峡に眠る戦没者を慰霊しています。
以上が「バシー海峡戦没者慰霊祭」の紹介文です。去る11/17初参加しました。きっかけは8/26ブログで紹介した「湾生」根井ご夫妻の付き添い。
なんの予備知識もないまま、台湾最南端、穏やかな海を眺めながら、10万や26万の戦没者、どんな情景だっただろう。不謹慎ながら映画タイタニックを思い出した。
すると、後から「ひょっとしたら、台湾で川柳をやっておられる杜青春さん?」……!!!!!?????
振り向くと70代白髪の紳士がいた。なんと千葉川柳番傘代表の宗吉みお先生
「以前、東葛川柳会でお会いしてましたよ。」
宗吉先生はご兄弟で慰霊祭に参加され、弟君は74歳。「父にだっこされたのは一回のみ、バシー海峡で戦没された」という。
台湾最南端まで来て、なお川柳仲間に出会うとは……。不思議なご縁をくれた先人たちに感謝しながら、海に向かって合掌した。
標題の句、海岸からバスに戻る時、椰子の実の屋台がズラリ並んでいた。「ココナッツジュース、オイシイ!」とカタコトの日本語でセールスしていた。暦では小雪だった。
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杜 青春(ト・セイシュン)。台湾台北在住。台湾川柳会代表。台北俳句会、春燈俳句台北句会、台湾歌壇の会員。2014年、台湾川柳会20周年を機に江畑哲男氏・台湾川柳会共著で『近くて近い台湾と日本〜日台交流川柳句集』を出版。