【台湾の声:2022年4月9日】
彭明敏先生が本日(2022年4月8日)早朝に逝去されました。
1964年、台湾大学で教鞭を執っていた彭明敏先生は、教え子の謝聰敏さん、魏廷朝さんと共に「台湾自救運動宣言」を発表するところでした。
中には「一つの中国、一つの台湾」、新たな憲法を創る、新たな国家として国連に加盟するなど、従来の中華民国視点ではなく、台湾を主体にした主張が盛り込まれていました。
そのために、彭先生は中華民国政府に逮捕され、8年の懲役を科されました。
1965年11月に国際社会の圧力により釈放されましたが、彭先生の自宅の目の前に派出所が設置されるなど、当局から監視され、軟禁状態に置かれました。
1969年、台湾青年独立連盟(台湾独立建国聯盟の前身)幹部の?昭堂さんは、彭先生が再び投獄される可能性があるという情報を掴みました。
黄昭堂さんと宗像隆幸さんは秘密のルートを介して彭先生と連絡を取りながら、彼の救出作戦に動き出しました。
その作戦とは、宗像さんの友人の阿部賢一さんが自分のパスポートで台湾に入国したあと、パスポートの写真を宗像さんが偽造した割印を押した彭先生の写真に貼り替え、彭先生に渡し、最後は彭先生が阿部さんのパスポートで出国する、という大胆なプランです。
割印を偽造するため、大の酒好きの宗像さんは禁酒し、9カ月を掛けてひたすらに彫刻の練習を繰り返しました。
その間、当局に悟られないよう、彭先生と暗号を使いながら手紙で連絡を取り合いました。
1970年1月2日、作戦通り彭明敏先生は出国に成功し、香港などを経由し、スウェーデンに辿り着きました。
途中デンマークから日本にいる宗像さんに電報を送り、作戦成功を伝えました。
1月23日、台湾青年独立連盟は記者会見を行い、彭明敏先生の台湾脱出を世界に向けて発表しましたが、安全のために彭先生の所在地や脱出方法を公表することはありませんでした。
彭明敏先生が監視を逃れ、台湾脱出に成功したことは、中華民国政府にかなり大きなショックを与えました。
当局は漁船での密出国が一番可能性が高いと考え、漁業者の調査に注力しましたが、もちろん成果なしでした。
脱出作戦を成功させた一番の功労者の宗像さんも20年以上沈黙を貫き通しました。
ブラックリストが解除になったあと、1996年に出版した著書『台湾独立運動私記─三十五年の夢』で、初めて自分の言葉でこの貴重な歴史を語ってくださいました。
宗像隆幸さんは、2020年7月6日に世を去りました。
華語には「歳月静好、是有人負重前行」という言葉があります。「安寧した暮らしを享受できるのは、誰かが重い責任を背負ってくれているからだ」という意味です。
彭明敏先生、宗像隆幸さんなど偉大な先人達が台湾のために貢献してきてくれたからこそ、今日の台湾の自由と民主があります。
彭先生が逝去された今、次の世代のために、より良い台湾を創るために、今度は私たちが責任を背負って前進する番ではないでしょうか。
彭明敏先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
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