「日経ビジネスオンライン」も<2015年、日本は戦後70年の節目を迎えます。日経ビジネスオンラ
インでは8月15日の終戦記念日に向けて、独白企画「戦後70年 未来の日本へ『遺言』」を長期連
載>する企画が今年1月から始まった。
1月5日の第1回は、スズキの鈴木修会長兼社長の「遺言」。その30人目が李登輝元総統だ。日本
人以外では初登場のようだ。昨日、「日経ビジネスオンライン」に掲載された。
本誌読者には周知の内容も少なくないが、よくまとまった読みやすい内容だ。下記にその全文を
ご紹介したい。
記事をまとめたのは武田安恵(たけだ・やすえ)記者。記事に併載されているプロフィールには
「2006年東京大学大学院学際情報学府修了。専門はメディア論。同年、日経ホーム出版(2008年に
日経BPと合併)に入社。日経マネー編集部にて個人向けの投資やマネープランに関する情報を提供
する。2011年4月より現職。主な担当分野はマクロ経済、金融、マーケット。プライベートでは
2011年に女児を出産。妊娠中からお休みしている趣味の空手をいつ再開するかが最近の悩み」とあ
る。
【李 登輝】大切なことは『武士道』にある─台湾民主化の父を支えた日本の道徳
【日経ビジネスオンライン:2015年7月29日】
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/275083/072100005/?rt=nocnt
戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来
に託す「遺言」を連載していきます。この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来
へ」(2014年12月29日号)の連動企画(毎週水曜日掲載)です。
第30回は、元台湾総統の李登輝氏。学生時代に『武士道』と『衣裳哲学』を読み、大きく影響を
受けたと明かす。この2冊を通して培った哲学が、台湾総統時代に生きる。「実践しなければいく
ら考えても意味がない」と語り、リーダーのあるべき姿を訴える。
李登輝(り・とうき)
台湾・三芝出身。旧制台北高等学校を経て京都帝国大学農学部へ進学、在学中に志願して学徒出
陣。1945年敗戦により学業半ばで台湾へ帰国。台湾大学に編入・卒業する。台湾大学教授などを経
て72年より政界へ。88年蔣経国総統の死去により総統に昇格。96年台湾初の総統直接選挙を実現さ
せ当選、総統を12年間務める。米コーネル大学農業経済学博士。1923年1月生まれ。(写真:? 光
煜)
◇ ◇ ◇
皆さんご存じの通り、台湾は戦前まで日本の統治下にありました。1923年生まれの私は、22歳ま
で日本人でした。日本の教育、中でも読書を通じた思想形成が、私に大きな影響を与えたのは言う
までもありません。
日本人は台湾に博物学、数学、歴史、地理、社会、物理、体育、音楽などを持ち込み、公学校で
教えた。それを通して台湾人は、世界の知識や思想の潮流を知ることができました。それまで台湾
人が教わっていたのは四書五経だけ。儒教や科挙といった伝統の束縛から解放してくれたのは、日
本の教育でした。
出身は台湾北部の三芝です。生まれたところには3カ月しか住みませんでした。父は警察官僚で
転勤が多く、国民学校の6年間で4回も転校しました。友達を作る環境じゃなかったんです。兄が一
人いましたが、祖母の家で暮らしていて、私は独りぼっちだった。
だから本を読んだり、絵を描いたりして過ごすのが、学校から帰った後の日常でした。私はよく
周りから読書家と言われますが、友達がいなかったから本をたくさん読んでいたのです。そんな私
に、父は玉川学園出版部(現在の玉川大学出版部)が出していた1冊4元の『児童百科大事典』を
買ってきてくれました。4元といったら、当時の父の給料の15%もする値段です。隅々まで面白く
読みました。
この体験によって、私は内向的で物事を深く観察する性格が培われたのだと思います。
私の性格が内へ内へと向かったのは、母の影響もあります。家は裕福で、仕事が忙しかった父
は、私にあまり口出ししませんでした。一方で母は私にかかりっきりになります。ご飯の時にはい
つも、豚肉の一番脂の乗ったおいしい部分をくれましたし、よく膝の上に抱き上げるなど、溺愛し
ていました。
私はそんな母の愛情に感謝しつつも、このままでは自分がダメになってしまうような気がして、
いつも反発していました。
母は私のことを「おまえは情熱的で頑固すぎるところがある。もう少し理性的になってみたらど
うか」とよく言っていました。周りに同年代の人がいないから、ますます自分に固執して我が強く
なる。
同時に「私は誰か」「人生はどうあるべきか」と早くから考える早熟な少年でした。
12歳の時、家を出る決心をしました。愛する息子が家を出ると聞いたら、母はきっと悲しむはず
です。そこで私は一計を案じました。「田舎にいてはきっと学校の試験に受からない。だから町に
出て勉強したい」と。
その結果、私は家を離れることになりました。
京都大学に進学するために日本に行くまで、最初は先生の家に、その後は友人の家に居候して学
校に通いました。
居候の身では、自分の家と同じように振る舞うわけにはいきません。「居候、三杯目にはそっと
出し」という言葉がありますね。まさにそれを地で行く生活でした。こうして私は家を出て初めて
他者との関わりを学んだのです。
◆伝統と進歩が止揚して文化が育まれる
人間というものは、2つの欲があると思うんです。一つは共棲的環境からの分離の要求。簡単に
言えば、他者とは違う人間でいたいという要求です。そしてもう一つが、自分を守ってくれる対象
に近づこうとする結合への要求。
この2つが拮抗して人間の自己が形成されていくのでしょうね。人生の中で、離れたりくっつい
たりを繰り返す。それは言い換えれば、自由と不自由の繰り返しでもあると思います。人間って、
そういう衝動を持つ生き物なんですよ。
相反するものが反発し合い、ぶつかり合うことは、一個人の人生のみならず、歴史の必然である
とも思います。
人間の歴史、文化は「伝統」と「進歩」という、一見相反するかのように見える2つの概念をい
かにアウフヘーベン(止揚)するか、つまり乗り越えてきたかという歴史の繰り返しです。「進歩
か伝統か」という二者択一はありえないのです。
◆影響を受けた『武士道』と『衣裳哲学』
最近の若い人は、何でも白黒はっきりさせたがろうとします。これは日本でも台湾でも同じで
す。でも日本はずっと、舶来物の文化が大陸から流れ込んできた中で、一度としてそれに飲み込ま
れたことはないはずです。日本独自の文化を立派に築き上げてきました。
日本は古来から、外来の文化を巧みに取り入れ、自らにとってより便利で都合のいいものに作り
替える力がある。
このような新しい文化の創り方というのは、一国の成長や発展という未来の道にとって、非常に
大切なものだと思っています。今の日本人は、それを忘れてしまっているのではないでしょうか。
私がそう思ったきっかけは、新渡戸稲造の『武士道』にあります。これを初めて読んだのは旧制
台北高等学校時代のことです。
武士道などというと、とにかく封建時代の亡霊のように言う人が多いですが、この本を真剣に精
読すれば、そのような受け止め方が、いかにうわべだけの浅はかなものなのかとすぐに分かるで
しょう。
武士道はかつての日本の道徳体系でした。封建時代には、武士が守るべきこととして教えられた
ものです。しかしそれは決して明文化、成文化されたものではなく、口伝えで脈々と受け継がれた
ものでした。書かれたものがあったとしても、それは数人の武士、もしくは数人の学者の筆によっ
て伝えられた、わずかな格言だけでした。つまり武士道とは「書かれざる掟」だった。
不言不文だっただけに、実行することによって、一層強い効力が認められました。武士道に書か
れている公の心、秩序、名誉、勇気、潔さ、躬行といった考え方は、すべて概念や知識ではなく、
行動や実践によって表面化し、初めて意味をなすものだった。昔の日本人の心の中には武士道が
あったからこそ、日本はどの国にも影響されず発展することができた。『武士道』を読んで私はそ
の思いを強くしました。
そのほかに影響を受けた本がトーマス・カーライルの『衣裳哲学』です。私の最も好きな本の一
つです。
初めて読んだのは高校1年生の時で、教科書に載っていましたが、ドイツ語のような英語が難し
くて分かりませんでした。
内容は、これを詳しくかみ砕いて講演した新渡戸稲造の本を読んで理解しました。台北市の市長
になった時、学者の道に決別し、政治に専念しようと台湾大学に自分が持っていた本を寄贈したの
ですが、『衣裳哲学』だけは手元に残しましたね。
「衣裳」というのは、宇宙のあらゆる象徴、形式、制度は所詮一時的な衣装、つまり衣服にすぎ
ず、動かぬ本質はその中に隠れている、というところからつけられたものです。
3巻からなる大著だけど、エッセンスは第2巻の第7章から第9章の間にあります。
「確信はいくら立派なものでも、行為に移されるまでは何の役にも立たない」
「確信はそれまではあり得ない。なぜならば、すべての思弁は本来果てしなく、形が定まらず、
渦巻きにすぎないからである」
深遠なる哲学も、最後は形として行為に移されて初めて意味を持つということです。新渡戸稲造
の『武士道』の精神に極めて似た部分があるといってもいいでしょう。この本は、総統に就任した
後も、大きな支えとなって思い出しては読み返していました。
◆歩兵になって「生と死」を考えようと思った
内向的でしたが、思想書や哲学書ばかり読んでいたわけではありません。
京都大学に入るために初めて日本に行った時は、宮本武蔵が決闘した一乗寺の下り松や、森鴎外
の高瀬川など、小説の舞台を訪ねたり、本能寺で織田信長と森蘭丸が明智光秀の軍勢にどのように
応戦したのかを想像したりしました。京都、阪神界隈の史跡はほとんど見て回りましたね。
大学に入ると、すぐに志願入隊しました。歩兵になって戦地を彷徨えば、これまで考えていた
「生きるとはどういうことか」「死ぬとはどういうことか」という生と死の問題に真剣に向き合え
ると思ったんです。だけど結局、台湾・高雄の高射砲部隊に派遣されたので考える機会はありませ
んでした。
高射砲部隊というのは、爆撃がなければ暇なものです。
暇なので、エーリッヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』などを読んでいました。第一
次世界大戦中のドイツ兵の話ですが、反戦を想起させると当時のドイツや日本では禁書扱いだった
本です。なぜか図書室にあったので読んでしまいました。
私はかの大戦については個人的に、日本は中国大陸には勝つと思っていたけど、対米開戦してか
らの日本軍の行動には疑問を抱きました。
南ソロモン、ガダルカナル、ニューギニア、西はビルマと、どんどん戦線は拡大します。作戦本
部は一体、兵器の生産能力や戦争遂行能力をどう考えているのかと疑問に思いましたね。戦前は長
い目で日本の将来を見渡す指導者がいなかった気がします。
終戦は名古屋で迎えました。私は名古屋の第十軍司令部からまた京都大学に戻り、1年後には台
湾大学に編入して台湾に帰ることになるのですが、学校が始まるまで時間があったので、広島や長
崎など、いろいろなところを見て回りました。
◆実践しなければ、いくら考えても意味がない
私が政治活動に関わるようになったのは、1971年からです。
それまでは台湾大学で講師をしたり、米国留学を2度経験したりと、学問の道を究めていまし
た。農業経済学が専門だったので、農業担当の行政院政務委員として入閣し、政治に本格的に関わ
ることになりました。そして1988年、台湾のリーダー、総統になりました。
私が総統になる前までの台湾政府内部は、特定の集団が得てきた既得権益で凝り固まっていまし
た。派閥が乱立し権力闘争で政治は成り立っていました。
私はもともと学者なので、権力もなかったしお金もない。そういう人間が改革をやろうとしたの
ですから、そりゃあ苦労の連続でした。
台湾のメディアは敵対する勢力に握られていましたから、何をやっても、テレビも新聞も私を批
判してばかりです。妻は「何でこんな目に遭わなければならないの」とよく泣いていました。私も
眠れない日が続いていました。
総統時代の私を支えたのは、クリスチャンとしての信仰と、『武士道』そして『衣裳哲学』の思
想でした。
この2冊の本に共通するエッセンスは、「実践しなければいくら考えても意味がない」こと。人
生も政治も、あれこれ思いを巡らして考えることより、何をやったかが重要なのです。
何を具体的に実践したか、その実践が結果としてうまくいったか否かで歴史的評価が決まるので
す。私利私欲にとらわれ、小田原評定のように議論に明け暮れるだけで実践できないでいると、い
つまでたっても台湾は中国の束縛から抜けられない。そう思いました。
総統就任中、『衣裳哲学』の中で支えとなったフレーズがもう一つあります。
「立て、立て、何でもおまえのできることを、全力をもってなせ。今日といわれる間に働け。夜
が来れば誰も働くことはできない」
「今日といわれる間」は現在生きている間という意味で、「夜」とは死んでしまった後を意味し
ます。今ある現実の中に我々の理想を発見する。天国を、我々の社会の現実に見いだす。これがと
ても大切なことです。
1990年代、私の政治はプラグマティズムだとよく言われましたが、それは『武士道』と『衣裳哲
学』の影響が強く働いたことであることは言うまでもありません。
若き日の私はこれによって救われ、人生に生きがいを見いだし、何度も何度も思い返しながら台
湾のために働いたのです。
私は安倍晋三首相のリーダーシップを高く評価しています。なぜか。有言実行だからです。それ
までの首相はいろいろ口では言うけれど、大したことをしてきませんでした。しかし安倍さんは違
う。口にしたことを大体やっています。政治家のあるべき姿とは、こうでなくちゃならないと思い
ます。
今、日本では憲法問題が盛んに議論されていますが、安倍さんは国民に時間をかけて説明し、議
論していくべきだと思います。問題を放置したり、無関心でいたりすることが、最も日本という国
の安全を脅かす。外から見ていて、そう感じます。
日本がアジアの中で自立し発展していくことが、東アジアの一層の安定と平和につながります。
日本が真の自立した国家として歩むことを、心より願ってやみません。