う・たかひろ)氏が編纂・執筆の『日台の架け橋』を本会でもご案内しています。台湾のことをよ
く知っているという方にも、あまり知られていないことがたくさん書かれていると好評です。
喜早氏が発行する「メルマガ『遥かなり台湾』」で、この本に寄せられた感動的なお手紙やエピ
ソードを2回に分けて紹介しています。
ここでは、2回目の方をご紹介します。本を出版するといろいろなエピソードが生まれます。中
でも、時間を超えて人と人が巡り合うという「神様のお導き」としか言いようがない場合もあり、
喜早氏が伝えるエピソードには心を揺り動かされました。
なお、掲載にあたっては、タイトルを文意に沿って『日台の架け橋』から「『日台の架け橋』が
もたらした不思議な出会い」と変え、小見出しを付し、読みやすさを考慮して手を加えさせていた
だいたことをお断りします。
『日台の架け橋』(下) 喜早 天海
【メルマガ「遥かなり台湾」:2014年6月21日】
◆廣江先生の命日に届けられた『台湾見聞録』
自分で本を出すと思いがけない出会いや筋書きのないドラマの一端を見せてくれるような気がし
ます。1998年の一番最初の本『台湾見聞録』を出した時には次のような信じられないことがありま
した。
それは、「恩師からの手紙」というタイトルで紹介した、戦前、南投県埔里にある公学校の先生
だった方が戦後20年ぶりに埔里に帰ってきたときの様子を、帰国後、教え子さんたちに記した手紙
のことです。
差出人の住所を見て、出来上がったばかりの本を先生に贈呈したいとの手紙を出したのですが、
全然音沙汰なく、あきらめかけていました。
すると、『見聞録』を発行した翌年(1999年)夏のある日、姉から連絡が入ったのです。「捜し
求めていた廣江先生の消息がわかったわよ。息子さんから手紙がきたのよ。」(注:手紙は姉に依
頼して出してもらったので、連絡先は姉の所にしていたのです)
「なんて書いてあった?」
「息子さん夫婦はね、お父さんの住んでいた家と同じ市内に住んでいて、お父さんはすでに亡く
なっていて、そのお家には誰も住んでいないんだって。先日、お父さんの法事が近々あるのでその
空家に行ったらね、偶然、郵便受けにある手紙を読んであなたの本のことを知ったという訳なの
よ。それで、その本を送ってもらいたいって書いてあるわよ」
「いいよ」
「じゃ、何冊送ればいいの?」
「そうだなあ。1冊では少ないし、10冊じゃ多すぎるし、5冊送ったら?」
すると、数日後、姉から興奮気味の電話が入ったのです。
「この前あなたから頼まれて送った本が届いたんだって。何でも先生の命日の日に、しかも先生の
子供さん達5人集まって法事をしている時に、人数分の本が届き驚いたって言ってたわ」
この話を聞いてボクもビックリ仰天! 廣江先生の命日がいつかも知らず、かつ先生のご子息さ
んたちが何人いるか知る由もなく、ただ適当な数量を姉に言って頼んだだけなのに。こんなことっ
てありえる? 本当に不思議な因縁を覚えずにはいられませんでした。
姉からの吉報の電話が入ってしばらくした後、廣江先生のご子息の方から次のようなご丁寧な礼
状が寄せられたのです。
<はじめまして。過日は大変ご立派なご本を恵贈賜わり有難うございました。まずは御礼を申し上
げます。(中略)
父は生前台湾から手紙が届きますと、よく私のところへ持ってきまして、「どうだ、立派なもの
だろう。今の若い人には、こんな手紙は書けないよ」と教え子の皆さんの自慢をしておりました。
ほんとうに、立派な、正しい日本語の書簡文で、感心して読ませて頂いたものでした。(中略)
ご本は奥秋様(注:ぼくの姉のこと)から5冊お送りいただきましたが、奇しくも、父の命日
に、7月17日に宅配便届けられて、なにか因縁のようなものを感じ、感無量なものがありました。
早速、父の霊前に供えさせていただきました。又、兄弟5人なので、7回忌の法事に帰っておりま
した兄弟たちに1冊ずつ渡したところ大変感動して、皆読みふけっておりました。
このような機会を作ってくださいました皆様に改めて御礼を申し上げます。(後略)>
そのご子息の廣江満さんとは、いまだに対面していませんが、快く私達の台日交流聯誼会に参加
いただき、かつ今ではメールや年賀状のやりとりする間柄になりました。まさに『台湾見聞録』が
縁結びの役割を果たしてくれたのです。
◆『日台の架け橋』がきっかけとなって
今回の『日台の架け橋』の本もまた予期せぬ出会いをもたらしてくれたのです。それは新社公学
校の新屋先生と教え子の交流(第5章)を知り、もう亡くなられた先生の遺族の方に送り、ご霊前
にでもと思い、先生の故郷である鹿児島に本を送ってみたのです。
もちろん先生の住所などわかりませんから、とりあえず鹿児島の教育委員会あてに手紙を添えて
送ったのです。すると、本は鹿児島から先生の奥さんが今住んでいる山口に転送され、それが教え
子である紫微さんの住む豊原(台中市)とリレーされてきたのです。それも偶然にも、山岡先生の
慰霊祭の前日に紫微さんから電話が入ってわかったのです。それで、山岡先生の慰霊祭に誘って一
緒に参加することになりました。
また、ほかに一緒に同行した埔里に住んでいる山内さんという方とも『架け橋』の本を通して知
り合ったばかりで、紫微さん、山内さんのお2人とは正に本がキッカケとなって結び付けてくれた
のでした。
考えてみれば、新屋先生と教え子さんの交流を知るきっかけとなった冊子本は、山岡先生の記念
碑を探しあてた時であり、今回の慰霊祭に参加して、2人との不思議な出会いは、山岡先生の霊に
引き寄せられたようであり、本を媒体にして知り合えたような気がします。
本を出すとお金では買えない宝物を与えてくれます。それは、前述のようなドラマだったり、素
晴らしい人との出会いだったり、将来へのよき思い出だったりする心の財産ともいえるものなので
す。
今回、日本で印刷発刊でき、かつよき協力者に恵まれたのも、これまでの出会いがもたらしてく
れたものであり、貴重な経験をさせていただいたと感謝している次第です。