(転載自由)
高為邦(中国投資の台湾企業被害者協会理事長)
資金が占有され、告訴を訴えた結果は入獄された
2004年2月3日、かつてアジア100メートル競走記録を作った紀政さんが台湾企業経営者張仲新のお母さん林玉祝女史と供に、張仲新を中国の牢獄から救出するため私を訪ねた。
張仲新さんはかつて中華民国の総統蒋経国が乗る飛行機の副パイロットで、1993年軍隊から退役してから人工芝生の製造に携わった。1997年張仲新さんが北京で100%出資した会社「奇為」を創業し、学校の運動場などに使われるPPの人工芝生を生産した。品質と技術が優れて、商売繁盛だった。そのとき、山東省にある「泰山体育器材グループ」の会長卞克良が共に会社を作る提案が提出された。
2002年5月16日に共同出資の「楽陵泰山場地材料工程会社」が立ち上げられた。張仲新さんが所持する生産設備、生産技術並びに受注した注文書を資金に、3割の株を持って社長を務めた。卞克良のほうは工場、オフィスと現金などを出し、会長を務め、管理・財務・経理の事務などを担当した。さらに、張仲新さんが元の会社に使われていた事務設備、コンピュータ、自動車などを100万あまりの人民元で新会社に売った。この金額は後日に現金で支払うことも双方が合意した。
当初張仲新さんが会社の規模が大きければ、成長も加速すると思い込んでいた。ただし、会長の卞克良には下心があったことに張さんが気づかなかったのだ。卞克良が約束とおりに資金も出さなく、張さんへの現金支払いも守らず、その上、銀行に会社の名義で8000万人民元を貸し付けた。ある日、張さんが営業の出張から会社に戻ってきたとき、オフィスと工場のドアーが閉められた。人に尋ねると、会社はすでに2003年の10月10日にクローズしたことを始めてわかった。卞会長に尋ねると、卞会長は「会社は莫大な銀行借金を抱え、もう潰れた。早く台湾に戻れ」と言った。しょうがなく張仲新さんが北京に戻り、弁護士と相談した。2003年11月12日に山東省徳州市の中級人民裁判所に告訴を起こすことをした。
この告訴の主審裁判官が絶対勝てないので、告訴を却下したほうがいいとわざわざ北京まで張仲新さんを訪れた。弁護士と再度話し合って、地元に多大な影響力を持つ卞克良会長と対抗して公平に審査が受けられないと思い、念のため直接に山東省の高級人民裁判所に告訴を提起した。この動きで卞克良会長が緊張した。彼は楽利市の公安と徳州市の公安と連合して、江蘇省泰州市まで来て張仲新さんを逮捕して徳州の留置所に入れた。
逮捕した理由は「会社の金を横領した」とされた。確かに張仲新さんの手元には会社の出荷代金をひとつ持っていた。張仲新さんはその金を当初卞克良会長が約束した会社の設備、PC、自動車などの代金にしようと考えて社には交付しなかったが、卞克良会長もそのことを知っていた。
留置された初期、弁護士が訪れることはできたが、「告訴を撤去して台湾に戻れ」という条件を断った時点から、弁護士や家族と会うこともできなくなった。紀政さんが張仲新さんのお母さんと一緒に私を訪れたとき、張仲新さんがすでに40数日留置された。それも法律が定めた留置所での最長拘束期間を超えた。
「告訴を撤去して台湾に戻れる」という条件は実は卞克良会長が台湾の投資者が犯罪して逃げるを言い訳にして、銀行に不良債権をあきらめて貰うための手段だった。
張さんのお母さんから前述のことを聞いて、私は海峡両岸関係協会の副秘書長王小兵に電話した。私は彼に、張仲新さんのお母さんはすでに台湾の国会議員19人に連署書にサインしてもらい、国会議員らと有名人の紀政さんと私が記者会見を開くつもりがあると伝えた。そして私も張仲新さんのお母さんが息子が中国の投資で被害された事実を公開したら、そのとき行っている選挙に、国民党に不利な影響を与えるよと王小兵副秘書長に言いつけた。話を聞いて、王小兵副秘書長が即時に国務院の台湾弁公室に連絡し、経済局経済紛争処の処長劉建中を山東に派遣した。一週間の交渉を経て、張仲新さんがようやく保釈された。
保釈された張仲新さんは無罪ではなく、審理を待つ身となった。中国の中央官庁と台湾の中国投資の台湾企業被害者協会、19人の国会議員、そして台湾国民全体に注目され、徳州の公安は少しおとなしくなった。とはいっても、張仲新さんの投資損失は今でも取り戻すことができない。