のたびにご紹介しています。昨日、7月初旬以来となる 第76回をお送りいただきましたの
でご紹介します。
今回のテーマは、本誌でも取り上げてきた「日治」と「日據」問題。歴史観を強制でき
る独裁国家ならいざ知らず、言論の自由が保障される国々では、歴史認識にかかわる問題
はいずこも根が深い。歴史を解釈する立場や思想にかかわるからだ。
傳田氏がこの問題で伝える中に、台湾事情がよく分かる事例をたくさん紹介していま
す。最後の「落ち」も利いています。
なお、読みやすさを考慮し、適宜、漢字をひらがなに開き、改行も施していることをお
断りします。
日治か日據か 傳田 晴久
【台湾通信(第76回):2013年9月13日】
◆はじめに
7月の中旬頃からでしょうか、台湾では「日治か日據か」で厳しい議論が続いています。
インターネットで「日治か日據か」をキーワードで検索すると、いろいろな方がコメント
を発表されています。また、聞くところによりますと、日本では朝日新聞、読売新聞、日
経新聞などでも報道されたそうですね。
日本が台湾を統治した時期(1895年〜1945年)をどう評価するかの議論です。この「台
湾通信」では少々遅くなりましたが、9月1日の自由時報紙に「限用日據」(日據を用いる
ように指定)という記事が出ていますので、未だ話題としてはホットであろうと思い、お
伝えいたします。
◆台湾でのホットニュース「日治か日據か」
話の発端は高校の教科書の検定です。この話題は昔からあり、台湾の政権の移り変わり
と連動して使い分けられたということです。
台湾の民主化以前は当然、国民党による反日教育があり、教科書には「日據」が幅を利
かせていたそうですが、李登輝さんによる民主化が始まったころからは「日治」、「日
據」が共存したようです。2000年の陳水扁総統誕生以降は「日治」に統一されました。
「日治」は日本による「統治」あるいは「植民統治」の略で、中立的な表現であるのに
対し、「日據」は日本による「軍事占拠」あるいは「不法占拠」の略で、批判的なニュア
ンスの表現と言われています。
しかし、この7月高校の歴史教科書に「日據」と書いた教科書が出現しましたが、今まで
検定委員会が「日治」を基準にしていたので、それらは不合格になりました(後に合
格)。とうぜん議論は百出。ついに教育部(日本の文部科学省に相当)は(二進も三進も
いかなくなったかどうか知りませんが)、「日治」も「日據」も両方とも容認すると決定
しました。
しかし、7月22日、行政院(内閣)は教育部の決定は受け入れるが、中華民国の主権と民
族の尊厳を維持すると言う立場で、今後の公文書は全て「日據」を統一使用するとの通達
(新聞稿)を出しました。さあ大変、議論百出です。
◆議論百出
中央研究院の近代史研究所長であり、検定委員でもある黄克武氏は「これまで『日據』
を『日治』に換えさせられていた教科書の中に、『日據』に戻す動きも出てくるのではな
いか」と言い(朝日新聞の記事)、同じ研究所副研究員の陳儀深氏は、行政院に対して
「出鱈目を言うな、1895年馬関条約により、清朝は台湾を日本の天皇に永久割譲したが、
その時代、中華民国はそもそも存在していない。いったい中華民国の主体などどこにあろ
うか。オランダが統治した時代は一般に「荷治」(荷は荷蘭;オランダの略)と称した。
日本統治時期を『日治』と称するのは理の当然ではないか」と言っている。
民進党のスポークスマン林俊憲氏は「馬英九政府のこのような行動の目的は一中原則
(一つの中国)を貫くことにある」と非難している。
台湾団結聯盟幹事長の林志嘉氏は「『日據』史観は中国の利益に符合し、台湾の利益に
反するものである」とコメントしている。また氏は「『日據』は、台湾は中国であると言
うことを表しており、『日治』は台湾歴史の事実を述べたものであり、台湾が発展し今に
至る主権独立国家であることを反映している」と述べている。
◆投書欄の意見
国立台北教育大学台湾文化研究所教授の李筱峰氏は7月28日の「自由時報」に次のような
評論を投稿された。
≪自分は今まで「日據」と言う言葉を使ってきたが、それは日本が馬関条約によって台湾
を清国から入手したが、その接収は決して生易しいものではなく、軍事行動を持って台湾
民主国(訳者注:1895年建国から148日間で崩壊)を打破して初めて手に入れたからであ
る。しかし、「日治」のことばは「日據」に比べると絶対的に意味が広く、実態を表して
いる。しかし、最近のこの言葉の争いを見るに、中台統一派は「日據」を使い、台湾独立
派は「日治」を使っているが、中台統一派の中にも「日治」を使う人も多くいる。それ
は、この言葉が中性的な言葉であるからである。
自分は今後、以下の理由で「日據」を捨て、「日治」をとることにする。
第1に、この度の馬英九政権による公文書を一律に「日據」に改めるという態度は横暴
で、筋が通らない。したがって、自分はそれを厳しく拒否し、抗議の意を表す。
第2に「日據」は字面からして「日本占拠」の意味であるから、自分は日本の台湾領有初
期の軍政時期(1895年8月6日〜1896年3月31日)には当てはまるが、日本の植民統治時期全
てには当てはまるものではないと考える。
第3の理由は、日本が統治した時代のみ「日據」と称し、同じように武力を用いて台湾を
統治した各段階については「據」の文字を使わないのは明らかに不公平である。
「仇日幼稚病」患者の馬英九は独り「日據」を好むが、実は中国国民党は軍事戒厳令と
動員戡乱(どういんかんらん)体制に寄りかかって台湾を統治しているのであり、これは
一種の典型的な占拠である。
ネット上に「荷據(ホージュイ)→鄭據(ジョンジュイ)→清據(チインジュイ)→日
據(ルージュイ)の次は何か? それは悲劇(ペイジュイ)である」という言葉が流布し
ているが、むりもないことだ。≫
以上が李筱峰教授の評論ですが、最後の「據」と「劇」は北京語では全く同じ発音です。
◆日治の証
日本の中央大学経済研究所年報(第43号2012)に林惠玉さんの論文「日本統治下台湾博
覧会とその宣伝活動」が収録されており、その結論部分「おわりに」に次のような記述が
ある。
≪台湾博覧会は1935年10月10日から1935年11月28日の閉会式まで、台湾総督府があらゆる
業界団体および台湾島民を動員した一大イベントであった。博覧会会期中は宣伝活動、各
館の出品内容、余興など全てにおいて台湾島民に刺激を与え、日本人の衣食住と文化及び
産業などについて台湾人に新たな認識を与えるものとなった。≫
この台湾博覧会については、拙文「台湾通信」第59回「台湾大観」にて概要を紹介しま
した(2012年2月6日)。1935年開催の博覧会を契機に、日本が清国から割譲された「化外
の地」を40年間でいかに近代的な社会に変えたかを、総督府が著した『台湾大観』から、
教育とインフラ整備状況を抜粋して紹介したものです。
この台湾博覧会開催の30年ほど前、1904年9月25日のニューヨークタイムズが「日本人に
よって変革された未開の島、台湾」と言うロンドンタイムズの記事を伝えています(日本
文化チャンネル桜の平成25年5月2日の番組で紹介されました)。
他の先進諸国が植民地政策で失敗する中、日本人は、清国から「化外の地」として手に
入れた(1895年)未開の島「台湾」を10年足らずのうちに見事に変えてしまった。日本は
教育を重視し、初等教育に飽き足らず、最高級の教育を台湾人に施し、鉄道を敷設し、
1897年に245万5357人だった人口を1903年には308万2404人に、約1.5倍に増やしたと絶賛し
ています。
これが「日據」の結果でしょうか。日本が軍政を敷いたのはたったの8カ月弱(1895年8
月6日〜1896年3月31日)であり、民政を敷いた8年後(1904年)には世界の大新聞がその統
治ぶりを絶賛したのです。それからさらに30年後(1935年)には博覧会を開催し、台湾人
とともに築き上げた社会を世界に問うたのです。この時、中華民国国民党政府は福建省と
厦門市の高官を日本に派遣、見学させ、その報告を受けて、日本人にできて、なぜ中国人
にできないのかと言ったとか……。
もちろんこの間に、日本の統治に反対する人々もおり、彼らが起こした反乱を武力鎮圧
したこともありましたが、どなたかと違って、何年にもわたる戒厳令を敷いたわけではあ
りませんでした。
◆戦後はどうだったか
1945年、日本軍は降伏し、蒋介石軍に武装解除されました。1949年に国民党が共産党に
敗れ、台湾に逃げ込み、そのまま台湾に中華民国を移しました。その直後に228事件を起こ
し、世界最長の38年間にわたる戒厳令を敷きました。
私が初めて台湾に来たのは1979年だったと思いますが、未だ戒厳令下でした。街中至る
ところに憲兵がいるのを見かけました。そのとき、街並みを見て本当にびっくりしまし
た。家々の窓には全て「鐵窗」(鉄格子の窓)がついているではありませんか。火事にな
ったらと思うとぞっとしました。
駐在員に聞くと、空き巣対策と言います。その空き巣というのはちゃちなコソ泥ではな
く、家をうっかり空けて外出しようものなら、トラックで乗りつけて、家の中の物を一切
合財、すべてを持ち去るのだと言います。
戦前は戸締りなどしなかったそうで、もちろん「鐵窗」などなかったと聞きます。
◆おわりに
日本の軍政はわずか8か月。それでも日本統治50年間を「日據」と呼べという。一方、38
年間に及ぶ、史上最長の戒厳令を敷いた中国国民党政府による統治は何と呼びたいのでし
ょうか。当然これは「中據」であるが、反対にして「中治」と呼びたいのでしょうか。
果たして当の台湾の人々はどう考えているのか。最新(2013年8月)の「民調」(TIS
Rによる世論調査)によれば、自分を台湾人と呼びたいと答えた人は82.3%、中国人と答
えた人が6.5%、台湾人であり、中国人と答えた人が6.8%と言います。中国による統一に
賛成は20.5%、反対は60.9%、台湾独立に賛成は52.3%、反対は27.5%でした。
圧倒的多数の人々は、台湾は台湾のモノと考えていると言っていいでしょう。しかし、
馬英九政権は中国との統一を目指しているように見えます。
馬英九政権に対する支持の状況を見ますと、「満足」と答えた人は14.8%と言います。
今朝の自由時報(2013年9月13日付け)ではそれがさらに下がり、11%です。新聞には、こ
の11%総統である馬英九はかつて陳水扁総統を引き摺り下ろそうとした時、「満足度が
18%に落ちたら、自ら総統を降りると知るべきである。他人に辞めさせられるのを待って
いないで、一人の人間として恥を知るべきである。そうすれば人々は初めて尊敬を……」
と演説したと写真入りで紹介しています。
誰も望まないことを推進する総統によって、彼の望み通り「中台統一」が成ったとき、
台湾はどうなるのでしょうか。台湾は北京政府によって占拠される、即ち「北據」(ペイ
ジュイ)となり、李筱峰教授おっしゃる「悲劇」(ペイジュイ)となるのでしょうか。