複雑さとあいまいさ  村上 太輝夫(朝日新聞国際社説担当)

【朝日新聞:2016年5月27日「社説余滴」】

 5月20日、蔡英文(ツァイインウェン)・台湾総統の就任演説を聴きながら、6年前の台北着任時
を思い出した。前任支局長の案内で民進党本部へあいさつに行き、「大陸で……」と口にするが早
いか、蔡氏から「中国と言いなさいっ」と険しい表情で注意されたのである。

 「大陸」とは、台湾と中国が「一つの中国」に属するとの前提下での地域区分を意味する。中国
共産党政権、および台湾で前政権を担った国民党の立場だ。一方、「中国」といえば、台湾と中国
は別の国という意味を帯びる。これが民進党の立場だ。

 複雑な歴史を持つ政治空間には相応の複雑な用語法がある。その認識が私には足りなかった。

 就任式典の後、蔡氏を知る学者に我が失敗回顧談を話したら、慰めてくれた。「それは彼女が自
分に言い聞かせていたんじゃないか」。当時の蔡氏は入党してまだ6年。台湾独立を掲げてきた闘
士集団の中で、党首らしく振る舞おうと努めていたのだ、と。

 だが国際法学者である蔡氏は入党前、李登輝政権下で「中台は特殊な国と国の関係」と位置づけ
る検討作業に携わっていた。後に「二国論」として知られる。やはり、これらの言葉遣いには強い
こだわりがあったのではないか、とも思う。

 今回の就任演説で中台関係のくだりは「両岸」と表現するのみだ。「中国」は刺激が強すぎるか
ら使わないのは当然として、「大陸」とも言わない。8年前、馬英九氏が総統就任演説で「大陸」
を繰り返したのとは好対照だ。練りに練ったであろう必要最小限の言葉を選びとり、対中交流を重
視する姿勢を示しながら、中国の求める「一つの中国」は確認を避けた。代わりに示した原則は
「中華民国憲法」及び関連法令、である。

 孫文の思想を体現した中華民国憲法は「一つの中国」を前提にする点で、中国側に受け入れる余
地がないわけではない。実際に今年2月、中国の王毅(ワンイー)外相がそれらしいことを言っ
た。

 しかし、危うさもある。中華人民共和国のほかに憲法秩序を認めれば、台湾独立の容認に近づき
かねない。といって中華民国憲法を否定すれば、良好な関係にある国民党をも敵に回すこととな
る。

 だから蔡演説を「あいまいな態度」と批判した中国側も実のところ、あいまいさを抱えざるをえ
ない。それが中台関係なのだろう。

                           (むらかみ たきお:国際社説担当)


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